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イブのおくれ毛73

时间: 2020-06-20    进入日语论坛
核心提示:蛮  行!食糧危機がせまってくると、だんだん、へんなものも食べないといけなくなるかもしれない。ネズミ、ゴキブリも、やがて
(单词翻译:双击或拖选)
蛮  行!

食糧危機がせまってくると、だんだん、へんなものも食べないといけなくなるかもしれない。
ネズミ、ゴキブリも、やがては食用ネズミ、食用ゴキブリに改良されて、レストランでも供されるかもしれない。
私は食いしんぼうであるから、慣れてしまえばかなりのものも食べられると思う。どうも、そういう人間であると思われる。モツでもホルモンでも、豚の足の、爪がついているヤツでも、魚の目玉、魚の|あら《ヽヽ》、何でもおいしくいただく人なんだ、私は。
「美しい顔で楊貴妃 豚を食い」
という川柳ではないが、スッポンを水槽から取り出し、スポンと首を切って生き血をタラタラそそいだ葡萄酒を飲み、大鍋に煮立てたスッポンを、平然と召し上る人なんだ、私。
目の前で、スッポンが首を切られていても、ウーン、などと見ていて、なおかつ大鍋に湯気立てて運ばれてきても、食べるのである。尤も、魚、スッポンまでの話で、鳥やけものを屠殺したり、羽根をむしったりというのは、いまのところ見ていては、食べられないだろう。
しかし、せっぱつまると、それも平気になるだろうと思う。
そこの神経の度合が、まことに強靭にできていて、考え方がスムーズに変貌していく自信がある。いい自信かわるい自信か、わからないけど。
それで、私のおそれているのは、アンデス山中の人肉嗜食事件のようなハプニングが、人生で起ることである。
アンデスの山の中に飛行機が墜落した。生き残った乗客は、死者の肉を食べて露命をつなぎ、辛うじて救出されたが、このセンセーショナルな事件は世界じゅうに、ごうごうたる議論をまきおこしたのである。尤も、キリスト教徒と、そうでない人との間には、微妙に受けとめかたに食いちがいがある。それはしかたない。ローマ法王でさえ、これを聖餐とみなして認めたが、我々無宗教者(無神論者ではない)は複雑な心境である。
ところで、私が佐藤愛子チャンを好きなのは、彼女が信頼できる人だからである。それが、アンデス事件となんの関係があるかというと、彼女がこの事件について書いていたことが、信頼できたからである。
われらが愛子チャンは何というたか。
「私だったらぜったい食べない。いかに飢えても人間は食らわぬ」
と力んで叫ぶ(この通りの文章ではなかったと思うが、しかし文意と口吻は、まさにこの通りのものであったと確信する)。
この人、食わぬといえば断じて食わぬ人である。それが信じられるからいいのだ。
こういうことがいえる人は少ない。当時の評論家、有識者たちは、この事件についてなまなましい告発や弾劾をしていなかった。極限状況になったら人間はわからない、と態度を保留する。あるいは極限状況の異常心理や行動を分析研究し、冷静に評論し、もって、来るべき飢餓時代ヘの資料にするのである。誰も人肉嗜食者たちを非難しない。
しかし愛子チャンはそんなこと知らん、ただもう正直に叫ぶのである。
私はそこが、とても信じられたのである。
愛子チャンは、「やらん」といえば絶対、やらぬ人であると思われる。
彼女のイメージは、
「名を惜しむもののふ」
という感じである。遠藤周作先生は、愛子チャンを白パンツにたとえられたが、私にいわせれば「箙《えびら》に梅の枝をさす梶原景季」というところである。あるいは、「兜《かぶと》に香を焚《た》く木村重成」といってもよい。サムライ中のサムライで、今ははやらぬが、「花は桜木、人は武士」というイメージである。女でこういうイメージの人は珍重するに足る。
そういう一言千|鈞《きん》の快婦人がいったのだ。
彼女の場合は(さもあらん)と深くうなずき、信じられるからりっぱだ。
これが私であるとどうか。私はかねてより愛子チャンに附和雷同し、彼女が、
「とんでもない、許せんですよ!」
と叫ぶと私は背後で、文字通り尻馬に乗って、
「そうだ、そうだ!」
という。
「たとえ餓死しても、人間の誇りは失わん!」
と愛子チャンが叫ぶと私はまた、
「そうだ、そうだ!」
という。
仮定として私と彼女は、共にアンデス山中へ墜落し、九死に一生を得たが、飢餓にさらされているのである。向うの一団の人々は、背に腹かえられぬと、人肉を干しかためて、チューインガムの如くしがんでいる。そうして親切に私たちにもすすめてくれる。愛子チャンはその手を払いのけ、前述の如く叫ぶのである。
しかし私は同調しつつ、人々の手もとを見つめて口中唾の湧くのを禁じ得ない。そのうち主義主張も見栄も張りもなく、人々がしがんで捨てた干肉へ、よろよろと這い寄って手をのばし、鬼界ヶ島の俊寛といったていで、震えつつ口ヘ入れるのである。いや、入れはすまいかという想像におののく。自分で自信がないのだから、人さまがごらんになれば、よけいであろう。私は、到底「名を惜しむもののふ」にはなれぬ、安手な人間である。
「まあ、人肉はともかくとして」
とカモカのおっちゃん、
「早い話、僕は犬や猫なんちゅうもんは食うてしもたらええ思《おも》てますなあ。犬カツ、猫なべ、なんて、食用ゴキブリよりはいけまっせ。犬猫なんざ、みなぶち殺して食うてまえ」
「何てこというの、犬カツとは許せん!」
犬好きの私はキッとなる。
「たとえ餓死しても、私は犬は食わん!」
「ほらほら、おせいさんかて、『もののふ』になりかけてるがな。犬猫が何やいうねん。キャッキャッいうことあらへん」
いや、私はおっちゃんを許せぬ。人間を食うのはともかく、犬猫を食べるなんて蛮行は許せんですよ。もうおっちゃんには遊びにこさせない。
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