巷間の俗説によれば、私は「悲母観音」「おせいマリア」ということになっていて、男には無限の慈愛をそそぐ、永遠に母なるもの、ということになっているが、これはウソである。
私は、観音さんやマリアや、お袋さんにはなりたくないし、なれないのである。
「永遠の母」よりも「永遠の色女」になりたい方である。
かつ、男という男にすべてやさしい、というのなれば、なぜああも、男の編集者につれなくするのであるか。
「できないものはできないんですッ、しかたないでしょ、ぎゃァぎゃァいったって! ガチャン」
と電話を切って、あいてをこまらせたりする、そんな無慈悲なことができるはずがない。一片の良心と慈悲心があれば、期日までに規定の枚数をキチンと仕上げて、男性編集者をヤレヤレとよろこばせ、うれしがらせるはずである。
それをできずに、詫びるどころか、
「そうやかましくいうから、よけい書けなくなるじゃないの、ともかく書くことは書くつもりだから、うるさくいわないでよ!」
と剣突《けんつく》くらわせたりする。そんなことをする女が、悲母観音であるはずはないのだ。編集者であろうと何であろうと、男にかわりがあるじゃなし、男という男にやさしければ、まず、手近の編集者記者諸氏にやさしくするはずである。
よって、私は、あんがい、男にはやさしくない、という結論がみちびき出される。
それどころか、男のこまる面ばかりがよく目につく。
男の横暴。身勝手。
男のしぶちん。無神経。ヤキモチ。
誰かを目の前でほめると必ず、
「いや、しかしアイツは、誰も知らないがこうなんだ」
とすっぱぬいてワルクチいう男がいる。人が(女が)そいつのことをほめたりするのが腹立って堪えられないらしい。そういうときに当人の人間の底「おのずからあらわるることを知らず」。
兼好法師は、女のワルクチをえげつなく書いているが、男だってたいてい人我《にんが》の相深く、貪欲はなはだしく、性はみな「ひがめり」。
まあしかし、それはいずれも、男、女お互いさまであろう。女も、女同士のワルクチをいい、しぶちんで無神経、身勝手であって、どっちがどうともいえない。
いい勝負で、未来永劫に、男と女は引き分けである。
また、引き分けだからこそ、えんえん、人類はじまって以来、男と女は取っくみあいのケンカをつづけていられるのだ。
そのほか、男は、よく自慢するので、それにもうんざりする。学歴自慢、経歴自慢、才能自慢。
いい年の中年男が、子供自慢、女房自慢。
知っていて自慢するのと、意識なくて心の底から自慢するのとはちがう。尤も、これも女にありがちのことで、マイホーム自慢という女が多く、いい勝負というべきであろう。
女の自慢はもはや、ありがちというよりも、生きてゆく上の絶対欠かせぬ栄養のようなもので、女というもの、呼吸するように自慢する。
ところが、男にあって女にないものが一つある。
愛社精神である。
女は、何年、会社へつとめようと、冷静に会社のことを考えたり、しゃべったりする。
会社へつとめているおかげで食べていても、
「ウチの会社いうたら、ねえ……」
と、社外の人にも、社員同士でいうような距離をおいたしゃべり方をする。
ところが男は、同じようなことを口ではいっても、底では烈々たる愛社精神に燃えてはるのである。
そうして、会社のためには、たとえ火の中水の底、「火にも水にもわれ無けなくに」という心意気である。
会社のことをちょっとでも誹謗《ひぼう》されたら、死を賭して攻撃し、反撥するのである。
梅棹忠夫センセイは、今の会社組織は昔のサムライの意識構造をそのまま踏襲しているといわれたが、サムライが、藩と主君を守るために命を抛《なげう》つようなところが、男にはある。
入社したての若い子が、愛社精神からというよりも、半分、そんなところへはいれたわが身かわいさ、自慢たらたら、
「うちの会社は、年商×十億やねんて」
「ウチの支店はニューヨーク、パリ、ロンドンをはじめ各国に百何十あります」
「資本金なんぼ、従業員なんぼ」
などといっているのは、まだ本人の若さとにらみ合わせてかわいげもあり、
「そうかい、そうかい、よかったねえ、リッパな会社へはいれておめでとう」
と、悲母観音ぶりを発揮できるのだが、これがアタマ薄くなり、おなかの出はじめた中年男ならば如何《いかん》せん。なんぼ中年好みの私だって、愛社精神旺盛で、わが社の国威発揚につとめる手合いは、始末にこまるのである。
潰れかかった会社は、やっきになって弁護する。隆々たるのは、なお自慢する。私にいわせれば、大丈夫たるもの、つねに一歩退いてわが身を見、社会を見、わが藩わが主君の暗愚、強欲ぶりを、とっくり観察、批判できるオトナであってほしい。ええ年からげて若いもんと同じように愛社バカを発揮してはならぬ。私は男どもの帰属意識の強さにへきえきしているのだ。
しかるにカモカのおっちゃんのいわく、
「ふん。それはすべて、おせいさんが、男に対し、男はかくあるべきもの、大丈夫、オトナはこうあってほしい、と夢を持っとるから、そんな注文つけるのです。男がどれだけ偉いものだと思うのだ。男はなべて、女子供と同等のレベルなのでありますぞ。買いかぶられては、大きに迷惑——そこを知らぬふりで抱擁するのが、ほんまの悲母観音やないかいな」
私、そんなもんとちがう。買いかぶられては大きに迷惑。