このあいだ、あるところで、講演のあと色紙を持ってこられ、私はいたくこまった。いつも自作の川柳を書くのであるが、その人はすでにそれは、持っていて、それでないのがよい、という。私はしかたなく、
「嗚呼《ああ》カモカのおっちゃん」
と書いて与えたら、その人はヘンな顔で深刻そうに、じっとながめ入り、二、三度首をかしげ、深遠な哲理を探究しようとするかのようだった。私は、ひや汗をかいて、そうそうに退散してきた。
「ねえ、おっちゃん、あんなときの文句はやはり、リッパな座右の銘を書くべきなのでしょうね」
とおっちゃんに聞いてみたら、
「何をいう。座右の銘など、クソくらえ。毒にも薬にもならんことを書くのがリッパなのです。それから見ると、『嗚呼カモカのおっちゃん』は、おせいさんにしては上出来ですぞ」
と珍しく、おっちゃんのおホメにあずかった。
「そうかなあ。でも色紙に書くと、我ながら、この文句はシマリがなかったよ。——私、なんかいいキャッチフレーズいうか、スローガンいうか、座右の銘いうか、考えたいなあ」
「座右の銘、というのは、つまり、日常そばにおいて自分のいましめ、はげましとするような言葉ですやろ。ということは、自分が平生、なかなかできんことを書くのや」
「なーるホド」
「西郷サンは『敬天愛人』と書いた。これはなかなか、敬天愛人がでけんことやからや」
「フーン。じゃ、佐藤愛子チャンが『前進!』と書くのは、自分じゃ前進でけへんからやね」
私はよろこんでいった。
「杉本苑子おねえさまが『放せば手に満つ』なんて書くのは、お苑がニギリ屋のせいかもしれないね、ハハハ」
愉快、愉快。
「おっちゃんの座右の銘は何ですか」
「何にしますかなあ。おのれをいましめ、はげますという意味なれば……『女房《よめはん》を蹴っとばせ』とか『ヨソに女をつくれ』とか。額にして鴨居に掲げ、また掛軸にして床の間に下げ、日夜、おのれをはげます」
「ということは、おくさんに敷かれっぱなし、という事実があるからですね」
「そうですが、まあ、座右銘としておちつきわるいから、『戒色』とでも書きますか。色をツツシメ。色をイマシメル。『本職に忠実なれ』とするか。いやいや、人間、酒と色のほか、人生の仕事はみな余技である。本職は酒と色。べつにいましめることもなかろう」
とにかく、おっちゃんのいうことは横着であつかましく、図々しい。こういう手合いに座右銘を求める方がまちがいであろう。
「やはり、座右の銘、というのは、性マジメな御仁、リチギ誠実な人が考えるんでしょうね、敬天愛人とか、則天去私とか、さ」
「そうそう。飢えた子供に二度と食を与えるな、とか」
「バカ、ちゃうちゃう、反対! 飢えた子供の顔を二度と見たくない」
私はあわてておっちゃんの口をおさえる。誰も聞いていなくてよかった。おっちゃんは酒に酔っぱらうと、スカタンをいう天才である。
飢えた子供に二度と食を与えるな、では反対になってしまう。
「まあ、何でもええけど、座右の銘なんか考えていると、おのずとそれにしばられて、人生が窮屈になる。そういうものはない方がよいのです」
とおっちゃんは忠告する。
「しかし、色紙を出されたときにこまるんだ」
「断ればよろしいがな」
「断っても書けと責める人がいる」
「たってのすすめとあらば書く。すべて、人はこだわり、あらがい、自己の信念に忠実なんてことは無益。水の低きにつくごとく、自然にする。さっきの『嗚呼カモカのおっちゃん』でよいのだ。それとも、晩めしに食うたオカズを考えて書く」
「オカズ? たいがい色紙は宴席のあともち出されるからなあ。ウーム、いまなら、カツオのたたきなんて、出るかもしれないよ」
「では『嗚呼カツオのたたき』など、よろしからん。何にくっつけてもサマになる。あるいは持病で苦しんでいる、そうすると、『嗚呼膀胱炎』などと」
「『嗚呼胆のう炎』なんてね。しかし汚ないな」
「そやから、ほんとうの人物ともなれば、色紙を書かれるような席へは出えへんです」
「そうか、わかった」
「人に目立つまい目立つまい、とする。しかし、それも作為的にするのはあかん。おのずと茫々漠々と、人のうしろに隠れ、万事にひかえめにして、人の先頭切ったりせぬのが大人物。——おせいさんに、僕は何年教えてるかわからんのに、まだ体得できんとは」
と叱られたって、どうしようもない。おのずと、人前に出されてしまうときもあるのだ。何も、そうしようと思わなくっても、上座に坐らされ、硯と色紙を持ち出されることがある。どうするか。
「そやから、そんなとき『嗚呼わが愛の膀胱炎』などと書けば、人は呆れて、以後二度とたのまぬ」
「そうか、わかった」
「おぬし女にしてはわかりが早い」
なんて、おほめを頂く。ついでに聞いとこうね。いい機会だ。
「大人物ていうのは、ほかに、どういうふうなのかしら?」
「まず、物をほしがらぬ。何事にも執着しない、無欲|恬淡《てんたん》、というところやろなあ。文学賞をほしがったり、全集に入りたがらぬ」
誰もほしがってなんか、いませんよ。
「飾りけなく、率直、ウソつかぬ。締切りすぎてウソ八百のイイワケをせぬ」
ほっといて下さい。しかし「大人物」のイメージについて、すこしおっちゃんと論議してみるつもりである。おっちゃんの称揚する大人物の定義や如何。