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イブのおくれ毛87

时间: 2020-06-20    进入日语论坛
核心提示:空襲と花束六月一日は、なんの日かというと、今を去る三十年前、私の家が空襲でめためたと燃え落ちた日である。大阪ではその前、
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空襲と花束

六月一日は、なんの日かというと、今を去る三十年前、私の家が空襲でめためたと燃え落ちた日である。
大阪ではその前、三月十三日夜半から十四日未明にかけて大空襲があり、そのときは、わが家のそばまで焼けたが、家は無事だった。大阪市の端っこなので、もうこのまま大丈夫かと思っていると、次の六月一日の大空襲に丸焼けになった。このときは被災家屋六万戸、被災者二十三万名といわれる。三月の空襲のときは、まだ何となく市民の間に昂奮のあまりの躁状態ともいうべき活気があり、「罹《り》災者様ご接待」などというハリ紙を出して、被災者の群れに茶や水をふるまう人々もあった。しかし二回目の大空襲は、そういう無邪気なハシャギぶりをこっぱみじんにする、暗鬱な気分がたれこめた。
私はその日学校にいたのだが、空襲警報が出たので壕へ入り、解除になって出てみると早《は》や、大阪の空は真っ黒な色に掩われて昼なお暗く、そのうち、豪雨となった。大火災のあとは必ず雨になる。電車もとまってしまい、私は級友と共に、鶴橋から北へ歩いた。
家は福島だから、大阪市内を南から北へ縦断することになる。まだ燃えている町なかを、被災者の群れは煤と泥で真っ黒になって次から次へと来た。火の粉は虚空を舞い狂い、女たちの髪を燃やし、雨は煤を伴って黒い。地面はほてり、両側の家がまだ燃えている通りは面もむけられない熱さだった。どこもかしこも、熱気で、かげろうがたちこめ、ゆらゆらと見えた。
私は級友と一人はぐれ二人はぐれした。最後の一人が、もう歩けなくなった私のために、兵隊サンのトラックにすがって、「この人だけでも乗せたげて」といってくれたが、手を振って断られた。断るはずで、荷台は、黒焦げ屍体の山だった。あの黒焦げ屍体というもの、表面は黒いが、手や足が吹っとんだ切り口は妙にあざやかなピンク色である。
私の家は焼けたが幸い家族はつつがなく、みんな私の帰るのをまちかねていた。肉親の生き別れや死に別れを経験しなかったのは僥倖というべきで、この日を肉親の命日とされる人々は多いことだろう。
二日おいて六月四日は、神戸に大空襲があった日である。それで野坂昭如サンが、神戸に来てナンカするというので、私は佐藤愛子サンと二人で応援にいくことにした。
会場ホールは若い男性や女性でいっぱいであった。私はかねて「中年ご三家はなぜ若い女性にモテると思いますか」という質問を新聞や雑誌から受けるのだが、いまだにこれといって答えが出ない。女の子たちは開演前からキャーキャーいっていた。私と愛子チャンは花束(野坂サンにあげるもの)を抱えて一ばん前の端っこに陣取っていた。私はバラの花束、愛子チャンはダリアと百合とカーネーションとミモザの花束である。二人とも舞台へ上って花束をわたすつもりであったが、野坂サンの歌がはじまると、ファンの女の子たちが続々と、客席から舞台へ花束を捧げに来たので、
「私たちも、あれにしない? こんな大きい花束抱えてのそのそと舞台歩いていくなんて恰好わるい」
と愛子お姉さまはいった。でも私はナマ返事していた。私は前もって野坂サンに「舞台へ上って、花束わたしたげるワ」と約束してあったので、予定変更したら、きっと彼はびっくりするであろう。びっくりしてもいいが、あがって歌をトチったりしたら気の毒だ、と思ったのだ。そうじて私は、自分の体験から人を推しはかる、アサハカな所がある。
野坂サンの前座に新人歌手《ヽヽヽヽ》、黒田征太郎サンが唄った。声に錆がきいていて、容姿に雰囲気があって、ちょっとシドニー・ポワティエみたいで、渋くてとてもいい。
野坂サンは、酒場で唄うのを聞いたことはあるけれど、こんなに千人の聴衆を前にした大舞台で唄うのを聞いたのは、私は初めて。
「やっぱり、うまいわねえ、すばらしいわ」
と私は感心して愛子チャンにいった。
「だんだんうまくなってるんじゃない?」
とおねえさまも耳打ちする。
「そうよ、ほんとに」
「マイクがいいのかもしれないけど」
これはどっちがいったのか、伏せとく。
野坂サンは絹のシャツにパンタロンの姿も大変よかったが、裾模様のある三波春夫ばりの着物も、まあ、よかった。しかるに愛子お姉さまは、
「なんですか、あの歩き方は!」
と、暗い客席の片隅で舌打ちした。それはまさに、長姉の貫禄、充分であった。
私は次姉、という風情で、
「そうねえ……少し裾が重たそうにモタついてはる」
とつぶやく。
「腰の辺りもなっとらんですよ!」
とおねえさまは舞台をねめつけていた。野坂サンにその声が聞こえたのかどうか、彼は蒼惶《そうこう》としてまた、シャツとパンタロンに着更えてきて、歌の合間に、私と愛子チャンと眉村卓さんの名をよんで「いられましたら、上って下さい」という。
(ほんとうに世話のやける弟だこと)という感じで、やおら花束をひっさげ、
「いきますかね」
と長姉の愛子チャンは私をうながす。次姉の私も、
「ウン、いこう」
と席を立って、舞台のはしっこの階段からあがっていって、結局、眉村さんと共に、調子っぱずれのウタを唄わされてしまった。
ところで空襲の話であるが、その夜あつまった若い青年子女は、神戸空襲を記録する会の君本昌久サンが作った「神戸大空襲」という記録映画を見せられ、しーんとして見入っていた。空襲の火の海をくぐりぬけてきた野坂サンが唄うから、すてきで粋なのかもしれない。それを若い人は肌で感じとっているのかもしれない。「野坂サンかわいらしい!」という女の子の声がうしろで聞こえていた。
一方お話かわって、こちらはカモカのおっちゃん。おっちゃんも空襲と艦砲射撃を同時に受けた世代である。今は生活のかかった野暮用にいそしみつつ、時折、歌など唄うが、おっちゃんには、かわいいとも粋だともいってくれる若い娘はいないのである。
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