暑いですねえ。浪花・兵庫の暑さときたら、もう何をかいわんや。私は町医者のささやかな待合室裏手の三畳間の仕事場で、全くノビ切っているのだ。風は通らずクーラーはなし。アタマをつかう仕事なんかできますか、ってんだ、この際。——よろしくもないあたまなのに。
しかるに冷房ききたる最新ビルの編集部からジャンジャン催促の電話。よけいのぼせてボーとなったところで、午後六時、シメタッ、「わが退社時間」。私は六時以後は仕事しない。電話にも応じない。しかるにアンケートの電話、頻々とかかる。
「エー、膣鏡についてどう思われますか」
バカバカ、そんなもん、こちゃ知らん!
「いや、女性が、ですね、女性自身をよーく知るということは、女性解放の第一段階だというウーマンリブの説がありまして、膣鏡によく似た性能のものが発明されたのです。女性がこれによって女性自身を知るということは、ほんとうに自己解放になるかどうか……」
「そんなもんを見なきゃ自己解放できないような人は、見ても解放できませんよッ」
ほんとうに、モウ。ガチャンと切る。堤玲子サンふうにいえば、この暑さにこういう俗事にかかずりわっていると、まさに「膣命を落す」ことになりかねない。
六時になると風呂へ入って、そうして扇風機をかけてお酒を飲んじゃう。
タイミングよく、「こんばんは」とカモカのおっちゃんがくる。
「お暑いことで。ビールでも冷えてまへんか」
「ビールもおたかくなりましてねえ」
「冷酒用のお酒も冷えごろではないでしょうか」
「お酒も値上りするとか」
「ケチ! しぶちん。こう見えても何を隠そう、僕は、国際秘密警察のもんですぞ、酒ぐらい惜しむな」
「秘密警察も落ちたもんですね、おっちゃんなんかをつかうとは」
「そう思わせるところがミソです。ほんとうは、マサカ、というような人物が、秘密組織にはいってるもんです」
私、おっちゃんなんか、インベーダーだといわれてもおどろかない。
「何か、涼しくなる話はありませんか」
とかたみにいい交しつつ、ビールをつぐ。
「こう、マッチを擦ったら燃え上りそうに暑いと、浮気もでけまへん。考えるだけでも女なんか暑くるしい」
「お金は」
「金も暑くるしい」
「お酒は」
「まあまあですな。酒なくてなんのおのれが浮世かな。ポン!」
と盛大にビールの栓を抜く。
「しかし、ですね。あなたのためならと二億円、命にかえて貢ぐ、という女があらわれれば、おっちゃんだってうれしいでしょ」
「それなら話は別。札束で頬っぺた叩かれ、いやいや操を売る心持ちというのは、また、かくべつのもんです」
「かくべつのもの、ってどういうの」
「いやや、いやや、と思いながら金のために身を売る心持ち、いや、考えただけでうれしさにゾクゾクし、欲情むらむらときますなあ……」
いやな奴ですね。
「すこし倒錯《とうさく》ふうじゃないでしょうか、おっちゃんの趣味って、だってふつうの男はみな、二億円貢がせた男を、エライ奴ちゃ、とほめそやしこそすれ、ゾクゾクするたのしみなんて思いませんでしょ」
「しかし、ですぞ。貢がせる相手の女、黒柳徹子サンであるとか、中山千夏チャンであるとか、かわいいオモロイ女であれば別ですが、赤塚不二夫えがくギャグ・ゲリラの醜女《ブス》みたいな女やと、肌に粟を生ずる思い。それに目をつぶって身を任せる快感、というのは、これはもう……」
「気色《きしよく》わりィ!」
「それよか、女は、どうして国際秘密警察なんかにひっかかるのですかなあ。おせいさんでも、魅力ありますか」
「うーん。女は制服が好き、ということはあるようですから、組織も好きなのかもしれない。——たぶん、何でもないときに、秘密警察、なんてコトバが出るとふき出すでしょうが、夢が現実になって、目の前に男がいて、甘い言葉をかけてくれて、そういうものと結びついたとき、急に、ホンモノらしくなってくるんでしょうねえ……。私でもその場になれば、わからないのでアリマス。私であるとか、佐藤愛子サンであっても、『僕ァ、国際秘密警察の者だが、君と知り合って足を洗いたくなった。しかし抜け出すには、先立つものが要るからなァ』などといわれると、これはフラフラときます」
「きますか」
「きます。週刊文春編集部をダマクラかして、原稿料の先借りをして入れ揚げます」
「しかし二億円、とはいきまへんやろ。文春は銀行とちがう」
「まァ二十万くらいはいけますね」
「ケタがちがうが、まァそれでもよろし、入れ揚げてもらうわけにはいきまへんか」
「しかし、秘密警察の者、というのは、正体不明の雰囲気がなくちゃ。おっちゃんでは裏表見通しで、あまりといえばあんまり、あっけらかんとしてます。貢ぐ気はおこりません」
「あきまへんか」
「ビールと冷酒を貢いでるやありませんか。それで辛抱して下さい」
と、私は、つめたーい日本酒をガラスのコップについでやった。それにしても、「国際秘密警察の者」なんて、ステキで心にくいなあ。世の男ども、このくらいの詩的な殺し文句を、照れず、おめず臆せず、いえるようでなければ、女はダマせませんよ。「国際秘密警察」なんて、女には「ベルばら」の「オスカル様」みたいに聞こえるのだゾ。
「だけどねえ、おっちゃん。国際秘密警察って、何するひと?」
「ハテ。きまってますがな。女に貢がせる人です」