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女の長風呂01

时间: 2020-06-25    进入日语论坛
核心提示:女のムスビ目私の住んでいる場所(いま、こうやって書いているところ)は、神戸の下町である。神戸ったって、ハイカラでモダンな
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女のムスビ目

私の住んでいる場所(いま、こうやって書いているところ)は、神戸の下町である。
神戸ったって、ハイカラでモダンな所ばかりとはかぎらない。このへんみたいな、がらがらした下町もあるのである。
ウチの前をストンと南|行《さが》ると(神戸では浜へ向けて南へいくことをサガル、という)、かの有名なる福原遊廓のどまんなかの柳筋になる。故に、わが住む町は、夜中まで嫖客《ひようかく》の足音が絶えぬ、パトカーのサイレンが鳴る、H会や、Y組のチンピラがうらのアパートでケンカする、福原の三流バーのホステスが買物籠を下げて、うろうろしていて、長雨になると沖仲仕のおっさんがしかたなく朝から酒をくらって歌っている声がきこえる、そういうところで、角《かど》っこに清元温泉がある。大将が清元が好きなのか、はたまた、元来そういう名前なのか、ともかく、そういう風呂屋(銭湯)がある。
だいたい、この町は気風|濶達《かつたつ》と見えて、風呂屋へいくのに男は夏はステテコ一丁、冬はパジャマ、あるいはねまきにチャンチャンコ、というふうていであるのだ。かえりにねまきを着るなら、さもありなん、だが、行きにすでにねまきを着てゆくのだから、この町の住民がいかに物に捉われない生き方をしているか知れるというもの。
家の前、清元温泉を東へいくと、湊川《みなとがわ》神社になって、要するに、われわれは湊川神社の氏子というべきなのだ。誠忠無比の忠臣の余香を拝する地域に住んで、ねまきで風呂へいくというのは、申しわけないようであるが、楠公サンというのは、神戸市民にとっては及びもつかないこわい神さまではなく、たいへん親しみのある人なので、住民もその親しさに狎《な》れて、楠公サンの思惑を意に介《かい》してる風はない。湊川(つまりこの町内のごくちかく)、は楠公サンが戦死した場所なのである。
ところで、風呂の中で大ぜいの女が入って何の話をしているのかと男は思うだろうが、男の思うほどの話は出ないものである。たとえば清元温泉でなくて、ほんとの湯治場の温泉へいくとする、かなりリラックスしていても、男ほどのことはない。男はうちつれて温泉なんかへいくとする、そしてまた、うちつれて風呂なんかへ入ると、もう、何をしてるかわかりはしない。何の話をしてるか、神のみぞ知る、である。リッパな紳士(彼はすぐれた音楽家でした)が風呂の中で同行の紳士連と何かのコンクールをして(何のか知りません)熱中のあまり、湯舟ヘボチャンと落ちた、なんてことを話すのをきくと、うらやましいくらいのもの。
女ははだかになっても、そんなあけすけなことはなく、気どっている。同性同士でも気どっている。いや、同性だから、よけい気どってるのかしらん。ちょこちょこッとうまくかくして洗い、相手より一秒でも早く湯舟に飛びこもうとしたりする。相手も、湯舟からしげしげ観察されたりしてはかなわないので、負けずに飛びこむ。そうして上るときは申し合わせたようにサッと同時に上ってあわてふためいて拭き廻して、噴き出る汗をぬぐいもあえず、スリップに頭をつっこんだりしている。べつに見せたってちびるもんでもないのに、同性に見せ惜しむ。その割に電光石火の一ベつを投げあって、(だいぶん下腹が出てるわ)とか、(あんがい、しなびてるじゃない)などと、ぬからず要所要所を看破してるらしい。
そういう、かくし廻ってる所から、たいした話はでるはずないが、どうも、それは、女の習性みたいなもので、私は女がかくしたりウソをついたりの元兇は、月々のちょっとした例のアレから来てると思う。
「いいですか、決して人に気取らせてはいけませんよ、何でもないように身じまいよくして、お便所を出るときも汚していないかよくよく気をつけて、スカートにも汚れはないか気をくばって」
と、母親や女教師から何くわぬ顔をしつけられる。女は図太く、モノをかくすようにかくすようにしつけられて、神秘めかしく大きくなってゆく。同輩うちつれて風呂へはいり、何かのコンクールをして熱中して湯舟へ落ちるなんて、朗々たることができようはずはないのである。何となくウサンくさい、ウソつきの、かくしたがりに育っちまうのである。
だから、初夜体験なんかでも、ほんとのことを話してる人、あるのかなあ、と私は疑問に思う。男の話をきいていると、彼らはそれまでの人生で、たいてい一つ二つのまがり角というか、ムスビ目のコブをもっている。戦中派だと、たとえば、敗戦のショックとか、学生運動の挫折、なんてことをいう。
しかし女には、そんなものがない。
男はムスビ目があるかんじで、女はそれがなく、ツルンとしている。
そこがふしぎ。中には、戦中派の女や戦後派の女、たまに男と同じことをいいたてる人もあるが、少なくとも見たかんじは男ほどではないみたい。女の、そういうムスビ目は何だろう? と小松左京氏にいったら、彼はさも嬉しそうに、
「そら初夜体験やんか」
と答えていた。しかし、思うに、女にとっては、それもムスビ目になり得ないことが多いんじゃないか。小松ちゃんにかぎらず男はみな、そういいたがるようだけど、どうかなあ。
それより、女は、実際の体験よりも、そういう知識を仕入れたときのほうが、ショックが大きくて、ムスビ目になっているのかも知れない。どんなにおぼこなお嬢さんでも、もう私たちの時代から、知識の方が実際体験より先行していた。そういうことは、どの女のひとだってあると思う。本で読んだり、友人がしゃべったり、ということがあるでしょ。
私のときは旧制高等女学校三年生でした。仲のいい、ちょっとヌケた親友が、近所のおばさんからその知識を仕入れてきた。みんな一しょの所ではいいたくない、と彼女がいうので、四、五人でじゃんけんして、順番をきめて一人ずつ、耳打ちしてもらった。
そのときの私の感想をいうと、長年の疑問、一時に氷解、というていであった。それでもまだ六十三パーセントぐらいはウソだと思っていた。なぜなら、戦時下の女学生として、私は尊崇のまとであった忠臣・楠木正成までそんなことをしたとは絶対に信じられなかったからである。
「そら、マサシゲさんかてしたはるわ。マサツラさんがいてはるもん」
と友人は断定した。
いま正成さんの氏子になって私、感無量である。
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