さらにつづきをしゃべろうと思う。
私の友人である元警官がいっていた。——いや、その前に彼のことをいうと、この男なのである、私と亭主がいつまでつづくかを仲間と賭けていて、私の顔さえ見れば、頼むさかい、もうちょっと保《も》ってや、といってるのは。
また、この男である、なぜケイサツをやめたかときくと、あんなとこは人間が堕落するようにでけとるのじゃ、というのは。
「警察のメカニズムちゅうのは、知らん間にわるいことせにゃおられんようになっとる。おれは自分の性質上、今にもわるいことをしやせんかと怖くなったのだ、すると大勢の道連れを抱えこむやろう、しかし辞めてしまうと、たとえわるいことをしてもおれ一人ですむからな」
と、ふしぎな理屈をいう男である。尤も、辞めたのはもうだいぶん昔の話。いまはもの書きであるが、ともかくユカイなおっさん、その男がいう、一対一の強姦ができにくいわけはもう一つある、だいたいアレがへんな付け根にあるからだ、というのが彼の説である。
あたまの上にでもついてりゃ、男というものはおおむね、女より背が高いもんであるから、コトはたやすいのであるが、下の付け根にあるからには、当方の一存で自由になるはずがないというのである。
この、付け根という言葉がおかしい。
私は若い頃、誰かの講演をききにいき、講師先生が「××半島の付け根に○○という町があります」といわれたのがおかしくておかしくて、たまらず噴き出し、すると笑い止まらず、とうとう退席して廊下で身を二タ重に折って笑いころげて苦しんだ記憶がある。いっしょにいった友人(前に出た三十八、九の中年前期の男)は呆れて、何がおかしねん、といい、「いやらしいヤツやなあ、ナベちゃんちょっととらわれすぎとるで、あたまの中であのことばっかり考えすぎてるさかいや」というたが、じっさい、考えればおかしくなるではないか。
付け根という言葉もおかしいが、元警官のいうように、どうして足の付け根に神さまがつくったのかわからない。元警官はそれこそ神の摂理で、女が身を守るのに便利なようになってるのだという。上からおそわれたら腕でふせげるし、下からおそわれたら足で蹴って防げる。両方防げるように、ちょうどまん中に付けてあるのだという。
してみると野坂昭如センセイなどがキックボクシングにうき身をやつして、足腰をきたえていられるのも、貞操を守るに効あらしめんがためであろうか。死守するほどの貞操を野坂センセイがまだもってはるやろか、もうとっくに|ちび《ヽヽ》てしまって跡形もないのとちがうか、いや、やはり肉体の鍛練にいそしんでおられるのであろうと思う。べつに貞操にはかぎるまい。でも他事《よそごと》ながら「足腰をきたえきたえてガンで死に」(阿茶)という川柳もあるから、野坂センセイ、気をつけてね。
それはさておき、果して神意が那辺《なへん》にあるのか、なぜ足の間でなければいけないかは充分究明されていない。現代科学の及ばぬ圏外の疑問である。元警官の説も全然見当はずれとばかりもいえないだろう。そうでないという、たしかな証拠もないのだから。しかしいろいろ考えてみると、やっぱり、あのへんが妥当な線ではないかと考えられる。一軒の家を考えてもそれはわかろうというもの、たいていの家では応接間は玄関からほど遠からぬところにきまっていて、あんまり家の奥深く迷路のつき当りのような所へ応接間をこしらえる家はない。
役所へいったって会社へいったって、「受付」「窓口」というのは外からはいってすぐのところにあり、来客に便なるべく設計されている。
元警官のいう如く、あたまのてっぺんなどにあったら危くてしかたがないであろう。来客は便利かもしれないが、家人は気が散ってしまう。
のどくび、おなか、などというところはあんまり朗々と陰影がなさすぎて愛想がない。なるべく、うさんくさそうな、いかがわしい、陰にこもった、かくしやすい、ややこしい、あいまいな、うっとうしそうなところがよい。へっこんだような、ふところの深いところがよい。
のどくびやおなかだと平坦であるからむき出しで無防禦で心もとない。
やっぱり、まがりかど的な、「この路地、ゆきどまり」というふうな場所が、浮世の波風を避けるには安全であろう。そういう路地の奥には、区役所を停年退職したじいさんがへちまなど植えたり、いささかの盆栽を棚に並べて花鳥風月を楽しんでいる。路地の奥にも四季があって、そういうじいさんにかぎってびっくりするような美しい娘をもっていたりする。
そう考えると、やはり現在あるところが妥当ということにおちつく。それにちかいところとしては、神は、腋《わき》の下などを第二候補にされたのではないかと思う。腋の下も付け根の一つである。
げんに尊いひじりは母夫人の腋の下から生まれたという伝説さえあるではないか。ここもやっぱりまがりかどでややこしく、路地の奥で、へちまなど垣根に植わっておって、打ってつけの場所ではあるが、しかし日常の活動に不便という点ではやはり第二候補というほかない。もし、腋の下などにややこしいものがあると、肩を組むということは、非常にワイセツな動作になる。人前で見せるなど恥ずかしい。
手を組む、肩をならべる、などということも軽犯罪法に触れる行為である。
「ハラをいためた子供」、というかわりに、「ワキをいためた子供」といわなければならない。
ビキニ姿というのは、胸とワキを掩《おお》った形になる。袖なし《ノースリーブ》ドレスなんか、破廉恥で挑発的で、良家の子女や夫人はとても着てあるけない。
タクシーを止めようと手をあげたとたん、腋が見えたりしたら、ワイセツ物陳列罪でひっぱっていかれる。そうなると手のかわりに足をあげねばならず、交通事故は激増する。小学生はスカートまくりの代りに袖の下のぞきをやる。先生が女生徒の肩にさわったら社会問題になって、進退伺いを出さなければいけない。スポーツマンの男はワキあてをつけて急所を守らねばならず、妊娠は岩田帯をタスキがけにせねばならぬ。いろいろ不便である。
神々は額をあつめて、いかばかり苦慮し、検討勘案したことであろう。