夜のテレビドラマをはじめてゆっくり見て私はビックリした。
「たいへんだ、たいへんだ」
私は水割りのグラスをとり落しそうになって叫び立てた。
「テレビドラマで……天下の公器で……(私昂奮して舌が廻らない)ブルーフィルムやってんだ、どうすべい、テレビ局へ電話したろかしらん、一一〇番がええやろか」
カモカのおっちゃんは首を廻してテレビを見、私がワナワナと震える指でさす画面にしばし目をこらした。
そこにはお腰元が腰巻きもあらわにめくれて上半身ははだかで、ちょんまげの侍に抱きすくめられようとしていた。彼はゆっくりと、
「まあ、このぐらいやったら、べつにカッカすることないのん、ちゃいまッか」
といい、私は憤然、
「けど、べつにこんな場面、あっても無《の》うてもええのんとちがうのん」
あらずもがなの危な絵をむりやり挟むからいやらしい、というのだ。
大方の筋になんの関係もないのに、腰巻きの赤いのがめくれる所を見せる、なんていうのはサービスか媚びか知らないが不見識もはなはだしい。
しかしカモカのおっちゃんは、あらずもがな、ならばべつにあっても差支えないという。このオッサンとはこういう所でいつも食いちがう。
小説も映画も、近頃はもうやたら腰巻きやパンティがめくれたりぬげたりするので、食傷してしまってゲップが出る。私はこのところ、なるったけ色けのないものが読みたくなり、そうかといって宗教・学芸等の崇高な書物がわかるはずもなく、もっぱら「大アマゾンの秘密」だとか、「ゴビ砂漠探検記」「恐龍の世界」「宇宙の神秘」なんて通俗科学書や通俗探検記なんかの古本を捜して読んでいる。
猫も杓子もポルノを書いたり読んだりするから、もうほとほと、いやらしさに愛想がつきるのだ。その上、若い者が見ているテレビまで、どうして赤い腰巻きなんぞ見せるのだ……。
「そういいながら、あんた、さっきからテレビにずーっと、目ェ据えてるやおまへんか」
とカモカのおっちゃんはいい、私は裸のちょんまげの侍から、あわてて視線をそらせる。
たとえば、私がきわどい場面を入れてほしいと思うのは、昔あった映画でいうと、堂々としたりっぱな大作。「戦争と平和」とか「ドクトル・ジバゴ」とか、あるいは「ローマの休日」みたいな可愛いの、「羅生門」や「七人の侍」みたいにちゃんとまとまったの、そういう大作の中にはいっている場面だと、すばらしいだろうなあ、と思うのだ。きれいなオードリイ・へップバーンや、三船敏郎や京マチ子さんなんかが、その映画の世界の中で見せてくれたら、どんなにすばらしい芸術作品だろうと思う。
アンソニー・パーキンスとイングリッド・バーグマンが共演した「ブラームスはお好き?」という映画も、ちゃんとそこまでうつっていたら、どんなに結末の物悲しさが増すことだろう。「クレオパトラ」のエリザベス・テーラーと、アントニーのリチャード・バートンなんかのきれいなそんな場面があったら、アントニーとクレオパトラの死もいっそう悲劇的になったであろう。
いまはまだ、そこまで人間は性を解放し得ない。
でも、やがてはそうなるだろう。それを描かずに、よけて通ることはできなくなるだろう。
それがいまできないものだから、その場面だけをとりあげて、拡大して別の人間が演じて見せてるのがブルーフィルムで、前と後がないもんだから、つまり、たいがいのブルーフィルムは女が見てつまらないのである。
女は、男とちがい、物語性を愛するのである。ソコヘいきつくまでの物語と、いきついたあとの展開が面白いのであるのに、ソコしかうつっていないのでは、つまらない。男はソコだけで満足できるから、あきることなく同じようなブルーフィルムを見ている。女はいっぺん見ればあとはみな同じでつまらない。それに、写真やフィルムはよほど美的感覚がないと却って醜悪にうつる。その意味からもすぐれた技術と感覚で、がっしりした構成とテーマの展開に支えられて、ポルノ場面をとらなければ、いまみたいに、ソコはソコ、ホカはホカ、とばらばらにとってたんじゃ、いつまでたってもだめである。
そうして醜悪なる危な絵や春画ばかりがちまたに氾濫する。
小説でも、やたらソコのところばかり書きまくる。
道具立てと主人公が変るだけで、テーマはソコを書くことしか、ないのだから、しぜん単純にならざるをえない。
すばらしい純愛小説を読んで来て、ソコまできて、またこってりと書いてあったら、どんなに食欲が充たされることだろうなあ。ところが小説の世界でも、ここは二タ手に分かれていて、序章と終章専門の正面文学と、ソコ専門の裏口文学となって、バラバラである。
管轄がちがうようになっている。
こんなことでは、とうてい文化の何のといえない。人間はまだせまい、窮屈ないじけた世界に住んでる。
それで私は絶望して「大アマゾンの秘密」とか、「宇宙の神秘」とかいう科学・探検ものを読むのだ。
ところで、それはどこにのっているかというと、「少年マガジン」で、ジャリの本もたまには有益なことがのってる。
しかしカモカのおっちゃんによれば、ポルノが解禁にならないのは、ジャリに与える影響をおもんぱかるせいであって、ジャリというのはじつに始末に困る、という。
私はジャリには早くからポルノ洗礼をほどこし、そういう捉われた意識から解放してやりたいと思うものであるが、まだまだ、現在のオトナではそういう風に考えない人が多い。げんに私も、テレビにきわどいところが出ると、大いにうろたえ、ジャリが来てはたいへんだと戸をしめたりする。これこそまやかし、偽善でなくて何であろう。
ジャリこそ諸悪の根源である。ジャリを撲滅すべきである。