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女の長風呂15

时间: 2020-06-25    进入日语论坛
核心提示:潜 在 願 望小松左京さんがいっぺんやってみたいのは因業《いんごう》ジジイの役だそうである。江戸時代の映画や芝居によくある
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潜 在 願 望

小松左京さんがいっぺんやってみたいのは因業《いんごう》ジジイの役だそうである。
江戸時代の映画や芝居によくある、金貸と女郎は江戸の華、借金の抵当《かた》にいやーな因業ジジイが、可憐な娘をひき立ててゆく、という図柄。
「長病みに女衒《ぜげん》のみえる気の毒さ」という川柳もある。
借金の方策も尽きはてた貧乏人は娘をお女郎に売りとばす。あるいは悪人づらのバクチ打ちの親分や高利貸のヒヒジジイに連れ去られる。
ジジイはにたにたと笑いつつ、ふるえて泣いている娘を、
「まあまあ、そない怖がらんでもええやないか」
などといいつつひき寄せ、長病みの床からやつれたお父《とつ》つぁんが声ふりしぼって、
「娘だけはごかんべんを」
と足にとりすがる、それをハッタと蹴たおし、形相一転してすさまじく、
「ヤイヤイヤイ、ほんなら貸した金、耳をそろえてここで返しやがれ。よう返さんのやったらその抵当《かた》に娘連れていくで。どや。文句あるか、ちゅうねん」
と吠える。娘はますます、ヨヨと泣いたりしてる。
「いや、こたえられん、そんなん、いっぺんやってみたい」
と小松ちゃんはあこがれ、しかし今どきそんなことしても、娘は身を揉んで笑い転げるであろう。
人身売買も搾取も、たしかに現代まだ行なわれてはいるものの、変貌して巧妙にすりかえられているから、かほどストレートな形に出てこない。男がやってみたいのはそのストレートなヤツだそうである。
「どうです、オタクもやりたいですか」とカモカのおっちゃんに水をむけると、俄然、満面に喜色あふれ、
「イヤー、それそれ、よろしなア、男の潜在願望です」
けったいな奴。
小松ちゃんはぜひ「ヒヒジジイ・クラブ」を作って同好の士を募りたいといっている。
なぜ男はヒヒジジイにあこがれるか、やはりそんな能動的なことができなくなったためではないかしらん。
男はみんな人の顔色を見い見い、動かなければならぬ世の中であります。なかんずく、女性の顔色を見つつ生きねばならぬ。
モノをいえば立板に水で一刀両断に切りすてられる。何かいおうと思っても、問答無用! と吐きすてられる。オロオロしてると、このとんま! と衿がみつかまれる。
くやしい、無念。
怨念《おんねん》がこり固まってテレビや芝居映画の因業ジジイに拍手をおくるのだ。そうして自分がやってるように思ってうっとり、空想するのではあるまいか。「ゆるして下さい、そればっかりは」とかよわく抵抗する娘をしょっぴく、パンパンと頬っぺた撲《は》る、エイヤッと投げとばす、足蹴《あしげ》にする、みすぼらしい着物をひんめくる、ワー、バンザイ、その快感。
女をいじめること、しかも貧しい女となると、とっても男はうれしいらしい。
「ヒヒジジイ・クラブ」は押すな押すなの盛況になるであろう。
現代の女だったら、佐藤愛子チャンではないが、夫や親兄弟のために舌打ちしつつもかけずり廻って金策し、期限のおくれた返済の弁解をし、心身をすりへらして高利貸と折衝する女傑、女怪も少なくない。
しかし考えてみると、楽という点では昔の女は楽である。
運命の波のまにまに漂いまかせて、泣いてりゃことがすむ。
どんな苦界《くがい》に堕《お》ちたって、わるいのは世間や因業ジジイで、娘はただもう、かよわい、いたいたしい、あわれな、心ぼそい、やさしい存在なのだ。
非力、無力で何にもできない、責任は何にもない、娘にわるい点はちっともない。ただもう庇護《ひご》すべき、あるいは凌辱《りようじよく》されるだけのかよわい存在であればいいのだ。
神さまか赤ん坊みたいなもので、娘は泣いてりゃすむ。あたまも使わず見栄もはらず、されるままになってる方が、なんぼか楽である。
いいなあ。
いろいろ考えて、昔の女の方が気楽だったんだと結論し、現代女性は今更のごとく愕然《がくぜん》とするであろう。女はかしこくなったが、不幸にもなった。
強くなったが、|しんどく《ヽヽヽヽ》もなった。
昔の女みたいにヨヨと泣いてみたい、そう思う女も意外に多いかもしれない。運命の波のまにまに漂い流されてしまいたいと内心思ってる女史たちもいるかもしれない。——古風にも古風のいいところがあるもんだと、女は女で「古風クラブ」をつくるかもしれない。
しかしまた、そうなったとしても、いまの男は颯爽《さつそう》と因業を立て通してくれない。
女のほうがそういう恰好をしているのに、なかなか合せてくれない。
だいたい男はぶきようであるから、調子を見て合せるということができない。
女も女で、一見どんなにしおらしげな女でも、いろいろと思惑もあり見つもりもあり、その通りにしようなどと、いろいろ気くばりして、中々昔の娘のようにヨヨと泣くだけではすまない。
教育というものはいいかげんなチエを人間につけるものだ。
男のいうようにして、やさしくてしおらしくてかよわい、いたいたしいようすの女になっていたって、たいがいの女は心中、
(ソコとちがうよ、ボンクラ!)
などと思っているであろう。
(またそんな見当ちがいのことをする、ほんとうにもう、どうしようもないんだから!………)
と毒づいているであろう。
(サッサとやればいいのに、何をもったいぶってんのだろう)
とじれったくも思うであろう。
まあ、ヒヒジジイも古風な娘も、講談や芝居の中だけで、それゆえにこそ、男・女の見はてぬ夢であろう。
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