いろは四十八文字、あれを七字ずつ並べ、一ばん下の字を横へ拾って読んでゆくと、「とかなくてしす」——咎なくて死す——になる、赤穂の四十七士をこれゆえになぞらえて、「仮名手本忠臣蔵」のタイトルを付したのだという人もあるが、ほんまかいな。
すると例のラブスタイル四十八手も、咎なくて死ぬから、四十八手とつけたのかしらん。
四十八手というのは何々をさすのか。向学心旺盛な私はあらゆる文献を渉猟《しようりよう》したが、不幸にしてそれを明記した書物はない、私の行動半径がいかに狭く、人生的キャリアがいかに浅薄皮相であるかがわかろうというものだ。
大先輩・野坂昭如センセイにきけばイッパツであるが、何やら業腹である。センセイのことだ、莫大なる束脩《そくしゆう》を要求した上、いざ入門すると知識の出し惜しみをしてオトトイコイと一蹴するかもしれへん、或いは実地教授と称してあやしきふるまいに及ぶかも知れぬ、君子危うきに近よらず。
カモカのおっちゃんは、これはダメ。この年頃の男は概して遊んでない上に、下情に通じてないから、てんで芋の煮えたもご存じない、松葉くずしがどっち向いてるもんやら、茶臼がどうなったもんやら知らんくせに、いたく興味を催して好奇心ムラムラ、「よっしゃ、調べたるわ」などと、独学独習で文部省検定試験でも受けるような意気ごみである。
バーのママさん連、ホステス、仲居さん、私の知ってる女の通人たちにききまわったら七つ八つぐらいまでは名をあげてくれたが、四十八手も諳《そら》んじてるバカは居らん。
「だいたい、型は基本として二つ三つやからね、四十八手がなんぼのもんじゃ」
と彼女らはいう、然り而《しこ》うして、四十八手についてはいたく冷淡である。
そこで私は一つの発見をした。それは、男は概してこういうお遊びに熱心であり、女は冷淡である、ということ。
男にとってはプレイであることが、女にとっては真剣であること。「枕絵の通りにやって筋違え」るのは男がいい出すのであって、女はそれを弄《もてあそ》ばない。四十八手とは何々ぞと手に唾して勇み立ち、一々それを試みんと気負うのは男で、「それが何ぼのもんじゃ」と無関心なのは女である。
女はあれを試《ため》し、これを試みてみる気はおこらない。女はおおむね、性については保守的で頑迷で、進取の気象に恵まれとらん、フロンティアスピリットに欠けとる、と思われる。もし活溌な性的好奇心をもつ女がいたとしても、それは彼女の本然のそれでなく、彼女をそうつくった既往の男たちの感化であるような気がする。
そうしてたとえば、一度すてきな快感を知る、すると男たちはそれに匹敵する、あるいはそれを上廻る快感が、ほかのやりかたで得られはせぬかと狂奔《きようほん》し、あれかこれか、と試みるであろう。そういうときの男の執念たるやものすごいもの、そしてしつこいのだ。つまり快楽に対して意地きたない。攻撃的である。しかし女は、前回と寸分たがわぬようにくり返して、同じ快感を得ようと努力するであろう。そのぐらいちがう。
つまり男は、間口のひろがりで四十八手を数え、女は一つの内側で四十八手を見つけようとするであろう。
女にいわせれば、同じ男と同じような条件の下で試みても、いつも結果は同じというわけにはいかない。
あるときは最高で、あるときは最低ということもある。その時々でちがう。
「そんなんを四十八手というのんとちがうのんかしらん」
と三十二、三のホステスがいっていた。彼女は奥さんではないが、特定の恋人がいる。そして、彼女にいわせれば、三年来の恋人と何べん愛しあっても一回として同じのはないそうだ。毎回、趣がちがう、という。
しかも、スタイルは毎度おんなじなのだそうだ。
ただ相手の男が、毎度ちがうと感じているかどうかはわからない。
彼女の側にかぎっていえば、まず、その日の気象条件がちがう、という。
お人よしの彼女は、男から金を絞る手腕がないので、あんまりいいマンションに住んでいない。ごく普通の木造アパート。夏暑く、冬寒い。外気の気象条件がすぐひびく。暑い寒い、湿気がある、乾燥している、それは肌に直接感じられる。
次に食べもの、飲みものが毎度ちがう。満腹になったとき、酔っぱらいすぎたとき、ちょうどいいかげんのとき。
そういうことも、いちいち影響する。
また、それらは物理的原因であるが、いちばん大きい、感情的な原因があって、二人がとても仲よく理解し合い、最上の状態でいるとき、あるいはまた、いささか感情の錯綜があって、会話がスムーズにいかないとき、これはもう、全くちがうという。
全く同じ動作をし、全く同じ手順でコトが運ばれているにもかかわらず、中身はちがうという。
「そこがふしぎよね——」
と彼女は感に堪えたごとくいう。
前回、最高の結果だったから、今度も、と思ってると、どこか、ちぐはぐになってるそうだ。あんまり期待してないときに、とてもすばらしかったりする。それでその次も、同じような条件にして意気ごんでいると、またはぐらかされるという。
「そこが生きてる人間の面白いとこかもわからへんけど」
と彼女は残念そうにいっている。
これを考えるに、女というものはじつにデリケートなものである。男はやたら、形や相棒の新型ばかり追っているが、女は旧来の型式を墨守《ぼくしゆ》し愛好して、形の上の目新しさを追おうとしない。男の四十八手はかぎりがあるが、同じ相棒、同じスタイルの中での毎回ちがった女のそれは無限であろう。
古歌にいう、「聞くたびにいやめずらしきほととぎすいつも初音の心地こそすれ」というのはこのことかもしれない。
女のそれは生涯に百手、千手と開眼してゆくものなのだろう。女の性の深く窮《きわ》まりないこと、男の性の比ではない。