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女の長風呂24

时间: 2020-06-25    进入日语论坛
核心提示:処  女男性に処女願望というのがあるそうだが、これなど女から見て、どうにもわからぬことの一つである。人によると、最初の記
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処  女

男性に処女願望というのがあるそうだが、これなど女から見て、どうにもわからぬことの一つである。
人によると、最初の記憶はまた、最後まで消えない記憶であるといい、その女の生涯に消しがたい烙印《らくいん》を捺《お》した如く考えて、悦に入る向きもあるようであるが、ほんとに男って、バッカじゃなかろうか。女は誰も、そんなもん、おぼえとらへんよ、気の毒だけど。
だんだんよくなる法華の太鼓、あとほど記憶が鮮明で、しかも女はそのこと自体より、その上に積み重なる人生の重みの方が意味が大きいから、「最初の記憶」なんて、「人生の重み」の前には吹っ飛んじゃいますよ。
つまり子供のしつけとか、亭主の出世とかのほうが、そして長いあいだの反復的夫婦関係のほうが女の心身を色濃くそめてゆき、「最初の記憶」なんてシミはムラなく消えて、ひといろに染め上げられるのだ、わかったか。
心得ちがいの女がいて、非処女を処女のごとく見せかけ、男の錯誤の上に立った征服意欲をそそって金を絞るのは勝手であるが、まあ本質はそんなもんで、あんまり処女に大きな意味を与えるのは見当はずれである。
しかしそれだからといって、無恥・無智した若い女が、「初体験はいくつのとき、相手は……」というのも、まことに白けたもので、こういう女の子を育てたわれらオトナ全部が、総括されねばならない。
処女に大きな意味はない、といったって、人前で、ハシカを患ったときの報告するみたいにいうものではない、このバカモン。すべてベルトから下のことは、他人や世間さまにはワイワイガヤガヤいわせておき、自分は何もしゃべらないのが、よくできた人間というものである。
だからポルノだって何だって解禁してもっと性的情報を氾濫させ、社会全体をピンクに染め上げて茹《う》だらせればよいのだ。そういう中で、自身だけは一切、そのたぐいのことを口にせず、秘めごとをあかさず、といって情知らずでなく、ワケ知り顔にうまく泳いでる。ことに女というものはそうありたいもので、ほんとにものごとの道理も知らない奴らに|おんな《ヽヽヽ》顔をされてのさばり返られては、こちとら四十まで、おんな商売張ってきた大姐御として片腹いたいよ。
このごろはさすがに、処女にかぎります、なんてあからさまにアンケートに答える花嫁募集の若い男は少ないようだが、もし今でもそう信じてる男がいるとしたら、これもわれわれオトナの教育がわるいと思う。
そもそも女を二十代前半で結婚させるなんて、私からみると無茶だと思う。ほんというと三十くらいの、千軍万馬のツワモノになってから、結婚するのが男も女も失敗の率が少なくまた、人生をたのしめていいのであるが、それでは子供が遅くなるというおもんぱかりで、結婚するのである。いまの結婚は便宜主義が多い。そんな結婚観が横行している現代では、まだ処女崇拝の幻影は追い払えない。
私なんか、処女のなれの果てを、もうイヤというほど見てきたのである。私は十七歳のとき終戦になり、娘ざかりのころは戦後の混乱期であった。復員兵がどっと氾濫して、クラスメートの大半は、うまく彼らを拿捕《だほ》して結婚したが、中にしそこねたのが居り、それらはついにそのまま、現在まで独身で働いている。
そりゃそうだろう。おびただしい数の男が戦死、爆死、病死したのだ。数がゆきわたらないのは当然で、椅子とり遊びではないが、誰かがあぶれて、立ったままウロウロしてるのが出るのだ。これは個人の罪でなく、政府と国家権力の罪である。
その中で、いかにも女らしく情知らずでなく、崩れもせず、きれいに生きてる独身の女も多いが、中には戦前、教えられたままに、処女をヒシと守ってそれをひそかな恃《たの》みとしている女も、少なくないのである。もうそろそろ五十に手のとどこうという年ごろで、それでも処女は処女なのである。全国には、昔の「古事記」に出てくる「赤猪子《あかいこ》」みたいな老処女がゴマンといるのだ。
赤猪子は、美しい少女だった。あるとき天皇が野辺で彼女を見|初《そ》め、必ず召すから待っているようにといった。赤猪子は愛の約束を守って八十年、今は老いさらばえたけれども、「おのが志を顕《あらわ》し白《まお》さむ」と思ってみやげものをもって(ここが泣かせる)腰かがまって天皇のところへいく。天皇はビックリする。気の毒がったけれども「其のいたく老いぬるに憚《はば》かり」歌をやってかえしてしまう。赤猪子は「身の盛りびと」若い女をうらやましく思い、その泣く涙は、着ていた着物の袖もしぼるばかりであった。
旧友の老処女をみると私は何ともいえぬ気がする。処女をやたらと捨てたがるのも阿呆だが、守りたがるのも阿呆、女の子の教育はあげて、このかねあいのコツをおぼえさせる、それだけの賢さを身につけてやることに尽きよう。
例によって例のごとく、カモカのおっちゃんに、処女を好むかどうか、きいてみる。なお念のためいうておくが、カモカのおっちゃんは亭主その人ではありません。ウチの亭主は朝丘雪路におけるかつての伏谷センセイのごとく、女房《よめはん》はキャッキャッと外で遊んでいても、ひたすら家を守り子を育て、黙々と医学の研究にいそしみ、孜々《しし》とゴルフの研鑚《けんさん》にはげんでいる朴念仁、いやちがった、結構人なのでありますよ。
カモカのおっちゃんはこれは酒飲んで駄ぼら吹いてるだけの(少なくとも私の前では)中年男で、亭主とは比べものになりません。
「まァ処女は、かんにんしてほしいですな」
と案に相違の、カモカのおっちゃんの話。
「この年では、しんどいんですワ。何や文句ばっかりいうて、いざコトにとりかかると痛いのヘチマのと、あばれてずり上り、トドあたまが床の間までせり上って大そうどう、イヤモウ、すンなり、素直におさまる方がなんぼラクか知れまへん、処女は願い下げ」
なんの話か、私には、よくわからぬ。
ところで私は実のところ「処女」なんてコトバからしてきらいなのである。民放ならいざしらずNHKの堅物《かたぶつ》アナウンサーまで大きな声で「処女航海に出ました」「処女雪がふりました」「処女出版しました」なんておくめんもなくいってるのきくと、恥ずかしくて消え入りたい。いう方は何ともないのかしら。
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