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女の長風呂26

时间: 2020-06-25    进入日语论坛
核心提示:身内とエッチこのあいだ、お袋に叱られてしまった。お袋は私の書くものは読んだことはないが、このところかかってくる電話をきい
(单词翻译:双击或拖选)
身内とエッチ

このあいだ、お袋に叱られてしまった。
お袋は私の書くものは読んだことはないが、このところかかってくる電話をきいていると、ほとんどみな先方さんが、
「週刊文春のを読ませてもらっています。へへ、エヘヘヘ……」と笑うそうである。
その笑い方に共通のニュアンスがあるそうである。
おかしい!? とお袋は思ったそうだ。そのへんが女の第六感である。
また具合のわるいことに「週刊文春」発送係氏が数週分、お袋のいる尼崎の自宅に送っていた。
私は具合のわるいのはみんな、神戸の自宅に送ってもらうことにしているのだが、何思いけん、私の手許に届けないでお袋の手許に掲載誌を届けてしまったのだ。
お袋はいそぎ「女の長風呂」を読み、ブワーッと青い汗、赤い汗が噴き出してきたという。青い汗は恥ずかしさで、赤い汗は怒りである。お袋は電話でどなりこんできた。
何という品のわるい下賤なものを書くのだ、何というエッチ、何という変態、女の変態はどうもならんではないか、これを読んで世間さまは呆れはてて嗤《わら》っていられるのだ、もう外へ出歩けない。恥ずかしくて恥ずかしくてご先祖さまにも貼り絵のお弟子さんにも合わせる顔がない、どうしてくれる。
どうしてくれるといわれたって、どうしようもないのだ、こっちは。
「そうかなァ。そんなに品がわるかったかなァ」
「あたり前ですよ、あたしゃそんなエッチに育てたおぼえはない。つきあう友達がわるいんです」
(私はカモカのおっちゃんをチラリと思い浮かべた)
「ウン、それはあるかもしれないよ」
「何にしてもすぐ、止めさしてもらいなさい。止めなければ、あたしゃ文藝春秋の社長さんに直訴します」
私はいたく煩悶《はんもん》した。せっかくの注文にこたえるのは仕事にたいする忠である。忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。
進退|谷《きわ》まった私にできることは、今後、お袋の目にふれさせないよう配慮することだけである。お袋は買ってまで読まないであろう。
ホカの人ならこのご時勢だ、なんぼ書いても仕方ないという。しかしお袋にしてみれば|ワガ《ヽヽ》肉親に書かれるのは、身も世もあらぬ気になるのであろう。身内というのはもう、こういうときどうしようもなく始末に困る存在である。
身内とエッチ、というと語呂合せになるが、身内のエッチトラブルはどうも堪えがたいのはなぜであろうか。
おとっつぁん、おっかさんの色狂いなんてのもやりきれないであろうし、兄弟・わが子が婦女暴行なんぞであげられたりしたら、私なンか恥ずかしくてようひき取りにもいかん。世間様に対して恥ずかしいんじゃなく、本人に面と向ってどっち見てたらいいのか、視線のやりばに困っちまう。
家庭、肉親というものは、ほんとうは、性を基盤にしてでき上っているものなのに、いざでき上ってみると、一切の性的なものは排除されてしまう、そこがふしぎである。
だから家庭で性教育なんて、すべきかもしれないけど私はおっくうである。
子供が見てるじゃありませんか、子供にきこえますよ、何です、子供の前で、などといってるほうが少なくとも私の場合、自然である。
そんな本読んじゃいけない、映画館の前は目をつぶって走りなさい、深夜テレビは見ちゃいけません、なんて子供にいうほうも自然である。性教育なんてどうやったらいいか考えてるだけであたまが禿《は》げる。家庭の中から一切の性的なものを排除してるほうが、気楽は気楽である。
尤も世の中には、近親相姦なんてあって、肉親同士で恋愛関係に耽《ふけ》ったりするのがあるけれど、私ごとき凡婦にはどう考えても解《げ》せぬ。
だいたい、亭主でさえ私には男とみとめにくい。
世の大方の男が、「女房なんて女やおまへんよ」といわれるのと同じく、私も亭主は男やおまへんよ、といいたい。何年もいっしょに住んでると、これはもう異性というより身内の色が濃い。
兄弟なんてシロモノは、これは洟《はな》をたらしたガキの頃から見てるから、いくら名刺に部長の課長のと刷りこんでも、男と思えぬ。義弟たちだってたまたま男の恰好してるだけだ。中ではわずかにカモカのおっちゃんが男の片鱗をとどめているが、それはやはり他人だからであろう。
まあ何にしても、家庭なんちゅうところは色恋、性的関心から見放されたようなものだ。
身内に対してエッチなことをしかけるなんて、想像もつかない。
かつまた、身内のだれかれが、ヨソのだれかれに向って、エッチなことをしかけてるなんて、想像もしたくない。
ゆえに、家庭の中で見てる身内というのは、一部しか理解していないのである。その人間の全面を把握できないからである。しかしそれにしても、身内がエッチなことをするとは信じたくない。
もと異性で、いま身内になってしまった夫と妻は、すこしニュアンスがちがうが、しかしいったん身内になってしまった夫が、よそへいって異性に対して男性としてふるまえる、つまりエッチになれるとは信じられないのである。
亭主たちはそれに対し、「見くびったらあかんぞ。こう見えても男は男なんや」とすごんでいるが、日常|坐臥《ざが》、亭主のあらゆる下らない姿態、嗜好、性癖を見なれた女房たちには、エッチなことが今さらできるとは信じがたい。
そもそも、エッチというのは、一種、人を眩惑させる気魄のことをいうのだ。アッ、エッチ! と一瞬ドキリとさせる、そういう殺気が流れないとエッチにならないのだ。見なれ、肌なれた男がなんでエッチでありえようか。
それを押して挑みかかる近親相姦なんて、ほんとうに壮観ですねえ。
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