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女の長風呂37

时间: 2020-06-25    进入日语论坛
核心提示:仙境の法悦私が、どうも若い者のワルクチをいうというので、おせいさんは若い美青年にいい寄ってふられたのではないかという噂が
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仙境の法悦

私が、どうも若い者のワルクチをいうというので、おせいさんは若い美青年にいい寄ってふられたのではないかという噂が飛んでいる。また、齢《よわい》すでに四十のゾロ目となり、返らぬ青春の悔恨に、若者と見れば嫉妬の炎むらむらと、毒舌を弄《ろう》するのだという説をなすものもある。
そんなことはありませんよ。
ありませんが、しかし、こういう若者はいただけないからだ。
過日、私はテレビを見ていた。私はテレビをよく見ている。酒を飲んでる時間ぐらいテレビを見ている。而うして酒を飲んでるのは一日の大半ともいいつべく、そうすると私はテレビを見てるか酒を飲んでるか、食べてるか、どちらかで、仕事は、これは神の思し召しにまかせ、その気になった時にする。
さて、テレビを見ていた。するとムツゴロウこと、畑正憲サンをかこんで若者たちがいろいろしゃべってる。ムツゴロウ氏は周知の如く、動物の楽園をつくろうとしている動物学者で、いまヒグマを飼ってて、ふやそうとしている。若者の一人が質問していわく、
「そんなヒグマのような、人を殺す害獣をふやしては、人が困るではないですか」という意味のことをいった。
するとムツゴロウ氏は憤然とかたちを改め、答えた。
「人を殺してもいいじゃないですか、ヒグマにはそれが自然だから」
キャーッ、かっこいい、ムツゴロウさんすてきッ。この問答は、中年と若者と、いうことが反対ですよ、反対。
こういう若いのは困る。私は、いびりたくなるのだ。若いくせにトシヨリみたいなこと考えるやつはあかん、キライ。
また、齢すでに四十のゾロ目になったとて私が何を嘆こうか、私は早く年とって七十すぎの老婆になりたいと思うものだ。五木寛之さんに倣《なら》って私も、七十すぎてからポルノを書きたい。それまで長生きして材料を仕入れなくちゃ。私は、余生の方に脂ぎったエネルギーを温存するように、配分しなければいかんと思っている。なぜなら萩原朔太郎は、
「余生とは自分の過去の仕事に関して註釈を書くための生涯だ」
といっているからだ。仕事というのはもちろん性的仕事であり、余生というのは性的余生である。朔太郎もきっとそういうつもりでいいたかったんだ、と解釈する。
ところで、若いときにうけた性的感動のほうが、としとってからのそれよりも、強いと人はいい、私も思っていたが、このごろつらつら考えてみて、あながちそうとばかりもいえないと思われた。女の性的生活は、初潮や結婚、妊娠、出産で生涯の花火をいっぺんにつるべうちにうちあげたと思いこみやすいが、年たけてだんだん、却って無数の花火が揚る気がする。だいいち、いろんな小説を読んでいるとわかる。
若いときにエロチックな小説を読んだら、あたまの上澄みだけがキンキンひびくようなショックである。
しかるに年とってから、それらを読むと、ひびきかたがちがう。
まず、読む本もちがう。年とると、やはり文章はまずくても、簡略でも、ホンモノの酒の匂いがぷーんとしてる本がよい。その匂いだけでクラクラとくるところがある。若いときには文章の美しさに足をとられ、みせ場に目を奪われて、真にエロチックなものと、そうでないものとの区別がまだつかない。若いとき、モーパッサンの「女の一生」を読んでいて、可哀そうなばかりで、エロチックな場面にはついに気付かなかったけれども、中年になって退屈をがまんしながら読んでいくと、突然、そこに気付くことがある。読んでて、はっとする。すると、あたまでキンキンひびくのでなく、|ずしーん《ヽヽヽヽ》と子宮にひびく。
女は年たけて猫又《ねこまた》になると、子宮で読むからおそろしい。へんなところの目で読む。
ずしーん、というと、躰中、家鳴り鳴動する。バズーカ砲に直撃されたみたい。
そうして、また、あら手の花火があがる。花火というのは女の体にむすうにあるのであって、一生、尽きることはないように思われる。
ただ、ブルーフィルムと同じで、ソコばかり書いたポルノ小説では、ずしーんとまではいかない。そういうあさはかなのは、せいぜいキンキンくらいである。
「壇の浦」だって何だって、ちょこざいな小手先の遊びである。きちんと小説になってて、くわしく物語ができてる中で、たんのうさせてくれなければ、子宮にひびくまでにはいたらない。
男性作家の小説はおおむね、カラッとしていて、ずしーん、とくるのはあまりない。その点、こわいのは女流のほうで、瀬戸内晴美センセイのものでも、円地文子センセイのものでも、すごいときがあるよ。ほんとにずしーんとくる。
「そういうのを読んだら、どうしますか」
とカモカのおっちゃんがきく。
「読んだらって、何がですか」
「いや、読んだあと、です。宮本武蔵みたいに、滝に打たれて邪心を払う、いうわけにいきまへんやろ」
私は、何をかくそう、ずしーん、とくるのを読むと、たとえ横にいる男が「週刊文春」記者氏であろうともしなだれかかりたくなるのである。(これは記者諸氏をおとしめていうのではない、念のため)
しかしそれを淑女が口に出していうわけにはいかぬ。かつ四十のゾロ目女のプライドもある。
私は威儀を正して答えた。
「そこが年をとるたのしみです。ずしーんとくる、そのずしーんそのものをたのしむのです。これぞ仙境の法悦です」
私はおっちゃんの口を封ずるべく、いそいでいった。
「そういうおっちゃんは、どんなもの読むと、ずしーんときますか」
「僕は中学生のころは〈アラビヤンナイト〉でしたな。鼻血が出るほど昂奮してしもた。今では自分で本読むことは、あんまり、おまへん。むしろずしーんとくるような本を読んでる女が、やっぱりずしーんときたとき、横にいてそれをじッくり見ている僕もずしーん、とくる、それがよろしな。イヤ、これは年とって発見した楽しみですな」
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