私は少女時代、ヒトより早熟なせいか、ピクッとくる言葉がじつにたくさんあった。
早熟というのはもとより、性的早熟という意味である。
しかし考えてみるに、少年少女というものはみな、性的に早熟なのではないか。昔の少年少女はそれを恥じて必死におしかくしているから、みんなそれぞれ、自分だけなぜこんなにいやらしく生まれついたのだろうと、悩みもだえていたのかもしれない。
ことに昔の女学生なんて、そんな告白は気《き》ぶりにも出さない。天使のような声で、リーダーを読んだり、「君よ知るや南の国」や「野|薔薇《ばら》」を歌ったりしているのだ。何かあるとキャッキャッと笑いさざめいて身を二つに折って涙を出してくるしがり、いつまでたっても笑い止めない。転任する先生があると、そんなに好きでもないくせに、校門の外まで追いすがっていっていつまでもハンカチをふったり、ヨヨと泣きくずれたりする。校長室へはいるときは、掃除当番のときでさえ、手がふるえてしゃちょこばって、緊張している。そのくせ教室で先生の禿あたまに糸屑でも落ちてきたりすると、もう一時間、授業にならない。ワー、キャー、ワー、と一クラス笑い苦しんで、中には胃けいれんなどおこして医務室へ運ばれる子も出るしまつ。
そういう女学生が、ひとにこそいわね、それぞれ、「気になるコトバ」があったのだと思う。昔の女学生はみんな、オトナの小説——(昔は家庭小説《ヽヽヽヽ》なんてのがあった)をよく読んでいた。吉屋信子、菊池寛、牧逸馬、加藤武雄、竹田敏彦、久米正雄、小島政二郎、片岡鉄兵、武田麟太郎なんてのを、愛読していたものである。現在の中間小説にあたるのもあれば、しゃれた都会派風のもあったりした。
「関係」というコトバが授業中に出てきて、教室中、ワーっと黄色い旋風が巻きおこったこともあった。昔の女学生は、「関係」というコトバで脳卒中をおこすようなショックを受けていたのだ。「貞操」とか「純潔」とかいうコトバも、ショッキングであったが、こいつをまた、老校長がおごそかに発音するのだ。
「貞操を守ることが、女子の徳目中、第一の、ものでアリマス」
ときびしくいい、ずーっと講堂中、全校生徒を見廻す。
すでに我々女学生は、貞操とかミサオとかいうものの何たるか、守るということの何たるかは、おぼろげにわかっている。これは先生が教えてくれたのではない。友人同士、耳打ちし合うのだ。おぼろげだから、よけい、あやしい。うろんくさい。何となく、想像するだけ。しかし実体はどうしてもわからない。そのわからない具体的部分は、菊池寛や竹田敏彦や小島政二郎の小説で補ってつづり合わせる。ことに時代小説なぞ読むと、ふんだんに出てくるから、大いに参考になる。女学生はだまっているけれども、雲助が旅の娘を手籠めにするような小説もちゃーんと読んでるのである。
「もし貞操を犯されるようなことがあれば、死してもこれは拒まねばならん」
老校長はいっそうきびしくつづけられる。
「昔の武家の女性は、汚されるよりは死を選んだものであります。かほどに、さように、婦女子の貞操は大事である。辱かしめられるよりは死を選ぶ、この凜冽《りんれつ》たる気概こそ、大和《やまと》撫子《なでしこ》の心意気であります」
女学生としてはほんとにもう困るのだ。犯すとか拒むとか、汚されるとか、辱かしめられる、などというコトバは、やわらかな乙女心に、びんびんと利きすぎるところがあるのだ。関係する、抵抗する、挑む、みな同じ、きいただけでマッカになってしまう。恥ずかしくて目から涙、口からよだれが出てくる。
女学生はみな、身を堅くして、強いて無表情な顔をしてきいているが、頬はほてるし、心臓は躍るし、しまいには、いってる先生まできらいになり憎らしくなる。
ワザと知ってて、あんなコトバ使いはるのんとちゃうか、と憎んだりする。
先生大きらい、大きらいな言葉! と思いつつ、そのコトバが出るたんびに、みんな、ビクンビクンと動揺し、それを友達にけどられまいとして、硬直する。而うして女学校の校舎全体に、ボワーッと、上気したピンク色のモヤがかかってしまうのである。
こんなことから考えると、じつにオトナというものはいやらしく、平気で、鉄面皮で、心臓つよく、厚顔無恥の動物であると申さねばならぬ。
「今はどうでっか、やっぱり、犯す汚す、関係する、抵抗する、なんて言葉にピクンピクンときますか」とカモカのおっちゃん。
この年ではそれよりも「長風呂」の原稿料を値上げしようなどといわれるほうが、ピクンとくる。男はどうか。
「僕の古い友人に野中という男がおりますが、こいつが中学生のころ、やはりピクンとくるヤツがあったそうです」
「どんなコトバですか」
「いや、これは歌ですわ。例の女学生愛唱歌の一つ、シューベルトの『野薔薇』ですな、この歌詞の一部を、ごく発音の似通ったある言葉にはめ替えると、わが友、野中を七転八倒させた歌になります。歌《うと》てみますか?」
私は歌ってみてくれるように頼んだ。
「わらべはみたり
野中の ○ラ
清らに咲ける その色|賞《め》でつ
飽かずながむ
くれない匂う
野中の ○ラ」
私は大笑いした。野中君こそ災難だ。
「この歌を歌われると野中は泣いていやがったものです。また、中学生の替歌をきいた女学生はまっかになって、以後誰もよう歌わなんだ。それにくらべ、おせいさんときたら中年女の悲しさ、平気で笑いよる」
とカモカのおっちゃんはいう。しかし私は思うに、中年者は恥ずかしさに於ては鈍感になるが、おかしみの反応度はそれに反比例して鋭くなるのである。もはや「犯す」も「辱かしめる」も私を悩ませないであろう、しかし「野|バラ《ヽヽ》」の歌は齢《よわい》を加えるにつれ、私をなつかしく、おかしがらせるであろう。