いつも締切りを守れなくて私は編集者に叱られるのである。
これでも一応は机の前に坐り、朝から一生けんめい書こうとしているのである。しかし書けない時は、昨日のツヅキから一行もできない。たいへん困る。どうしていいかわからない。そこらあたり跳ね廻りたくなる。締切りはその前日である。しかもはや今日も一日過ぎて日が暮れる、そういうとき、催促の電話が鳴る、絶体絶命、どうすりゃいいのだ、まさにそのときである。一種、異様な気持、悔恨とも悲痛とも慚愧《ざんき》ともつかぬパニックに見舞われる、焦《あせ》り、いら立ち、とり返しのつかぬ気持、できるものなら時間をよび戻したい、ワー、えらいこっちゃ、と髪をかきむしる気持。だが、こんな気持はどうも今はじめてのものじゃないのだ、大昔にもあった気がする。
それをあるとき、私はハッと思い出した。子供のころ寝小便をしてとびおきたときの感じなのである。冷たいから目がさめ、子供心にも「アッ、シマッタ!」と思う、どうしようと身悶《みもだ》えして蒲団にできた地図をじっと見る。手を振ったらパッと消える魔法がないかしらんと思ったり、ぶたれるかもしれないと考えてるうちに悲しくなってシクシク泣き出してしまう、その辛い記憶がまざまざとよみがえり、中年女の私をおびやかすのである。
締切り地獄からはぬけ出せないものの、お蔭さまで寝小便だけはこのところ縁が切れてうれしい。尤《もつと》も、たとえやらかしたとて、もう大人だから自分で洗って自分で干してりゃすむのだが、私は独り者ではないゆえ、相棒のヒンシュクを買う。買ってもいいが家事は落第の上に寝小便ぐせ、というのでは、離婚するにしても分《ぶ》がわるい。
どうして寝小便しなくなったかというと、お便所へゆきたくなると、自然に目が覚めるからだ。うれしいことだ。
しかし体調によるのか、お便所へいきたいのにどうしても目が覚めないときがある。ところが、深い意識の底で、いまやってはダメだと抑制しているから、寝小便にはならない。その代り、ありとあらゆる便所の夢なんか見たりしている。
私のよく見るのは恐ろしく汚ない便所である。総じて、こういうときに出てくる便所は汲取式である。しかもピラミッド型に盛り上った奴が、しゃがむとお尻に届かんばかりに|つくね《ヽヽヽ》てある。おまけに床板は濡れて腐って踏みぬく恐れあり。私は残念ながら断念する。
そうして私は便所を求めて夢遊病者のごとく(夢の中だから当り前だ)さまよいあるく。便所をみつける、やれうれしやと思い、かけよる。しかしその便所はたいへんな行列が十重二十重《とえはたえ》ととりまいている。とても待てない、私はあきらめてまた、次のをさがす。みつけてかけよる、こんどはドアがない。
私はまわりを見廻して人影のないのをたしかめる。しかし、やっぱりドアのないトイレには入れないのである。情けなくって泣き出そうかと思う直前、目がさめる。そうしてお便所へゆきたいのを思い出し、あわてて床をぬけ出していく。
そうして、ココハイイノダ、ココハシテモ大丈夫ナノダ、と寝呆けあたまで何べんも納得させ、やっとすませるわけである。何だかたいへん疲れ切った気がしたりする。
しかし、夢の中で見る便所がみんな使えないような汚ないところ、実に人間心理のはたらきというのは、うまくできてると思う。私は便所に対して神秘感さえもっているのである。
子供のころ、便所に関する迷信はじつにたくさんあった。
「赤マント」という流言もその一つであった。昭和十年代のはじめである。「赤マント」なる怪物は小学校の便所に隠れて子供を襲い、あたまから食べてしまうのである。
女の子は、校内の便所でもしばしば痴漢に襲われることがあるから、あながち荒唐無稽な作り話ともいえない。学校では、「お便所はなるべく連れ立っていきましょう」などといっていたが、私たちは赤マントのためだと思っていた。
女の子の間だけにささやかれる迷信だが、真夜中、便所に鏡をもって入っていると、未来の夫の顔が映るというのである。
これは魅力のあるこわい話であった。みんな、とてもやりたがっていたが、ついに誰ひとりした者がない。私だってそうである。未来の夫の顔を見たいが、夜中の便所で鏡を見られるかどうか、考えてみるがよい。思っただけでも鳥肌が立つ。
とくに私の家の便所は、長い廊下の先にちょこんとあった。便所の裏は、大阪の下町に多い、路地の行き止まりで、いつも地虫の鳴いているような暗い淋しい空地だった。
昼間はともかく、夜、小さい灯のついたこの便所に入っていると、肥壺《こえつぼ》の底から何かの手が延びてきそうな気がして、いつも死ぬほど恐ろしかった。子供の私には便所の底は、地獄に通じるかと思われるような魔界だった。おそろしく暗く、神秘で陰惨で、臭く汚ない、まがまがしいところだった。
しかし私がオトナになり、同時に水洗便所が普及してきて、何だか人生まで、あっけらかんとしてきた。
便所は食堂と同じく、単純明快、俯仰《ふぎよう》天地にはじないものになってしまったのである。
昔、必死の思いで恐怖に堪え、用を足したものが、今はぴかぴか光って明るいタイルの壁にかこまれて、いろんなのんびりしたことを考えたりしている。冬物の入れ替えをせねばならぬ、とか、家政婦の給料はこの一年で何パーセントあがったであろうか、ということを沈思する。
「そういうとき、手鏡で自分のものを見ることはおまへんか、女の人は」
とカモカのおっちゃん。どうして手鏡がいるのです?
「いや、女の人はむりに見ようとすると首の骨が折れまっしゃろ、男とちがうから——手鏡をさしこむと、その……」
何をバカなこと、いってるんです! 便所の中は狭い上に、妙な姿勢とってたらひッくり返るのがオチ、そんなあほなことする女っていませんよ。女は男とちがい、好奇心はそう強くないのだ。
「いやそうは思えん。その証拠に、女流作家の小説には、往々じつに詳しい臨床的な女性部分の描写があります。あれはどう考えても便所に手鏡をもちこんでメモしたとしか思えん」
いやなおじさんですねえ。男ってこんなこと、考えてるんでしょうかしらねえ。