おべんじょの話のつづきをするわけではないが、色町のチエの一つに、客が用足しに立つと、すぐ妓《おんな》がついていって、廊下で話しかけたり、出てきた客に手水《ちようず》の世話をしたりして、客の遊心をつなぎとめるというのがある。
これは全くそうで、便所の中にひとりいて心静かに用を足してると、何となく白けて興ざめるものである。
大方《おおかた》の男は、結構なる女性がついてきて、遊心をつなぎとめるという手厚い待遇を受けるような目には会ってない。たいがいカウンターのつき当り、ほとばしる水音が客席にもれ聞こえてくるような安酒場のトイレで、ひとり用を足すもんだ。
而《しこう》して暗い灯のもとで酔眼を朦朧《もうろう》と見ひらいて時計に目をこらし、今、何時やろ? とながめ、あれッ、もうこんな時間かいな、ひえっと目をうたがう。そうして頭《こうべ》をたれてすぎこし方《かた》、身の行く末に思いを致し、はかなげな水勢を見つつ、あれこれわが身の所業をかえりみているうちに、愕然として一瞬、われに返るものである。
「ああ おまへはなにをして来たのだと……
吹きくる風が私に云ふ」
よって大方の人は、蹌踉《そうろう》と席へもどって、夢からさめた人のごとく、
「ほな、ぼちぼち、いこか」
などといったりする。
こういう、里心のつく一瞬は、便所の中のほかに、ジャリ(子供)がしゃしゃり出てくる時もある。これも困るものだ。オトナの席に出てくるジャリというのは、里心というよりも、風船がしぼむごとく、遊心を萎えさせ索然たる心境にさせる。
これは里心というより、人を本心に立ち戻らせるから困るのである。
ジャリがウロチョロすると、せっかく忘れている浮世のきずな、義理のしがらみを思い出させてしまう。便所どころの騒ぎではない。
ジャリは人のはずべき、隠すべき部分であります。
プライべートな、かくしどころであります。
人に自慢するなどとは以てのホカである。
会社の机上のガラス板の下に忍ばせて、日々仕事のあい間にうちながめてニンマリし、飽かずヨダレをたらしてるのはいやらしいが、しかしそれは会社だから、許される。
酒を飲むところへ来てまで、定期券入れに入れたジャリの写真を見せるなんて男の風上にもおけない。こんなことされちゃ、いかに好もしい紳士だと思っても、百年の恋も一時にさめはてるから、淋しい。
女が子供の自慢する、というのは、これはいわば「われ讃《ぼ》め」自画自讃、みたいなもので、さもあらんというところがあり、まァ仕方ないと情状酌量の余地もあろう。しかし男は困る。男は女房子どもは、家のシキイを一歩またいで外へ出るが早いか、精神的に離縁してほしい。
一個の男として行動してもらいたい。(酒席では会社より殊にそうである)色ごとの場では、いわずもがなである。
この頃の男、昭和ヒトケタ前半ですら、
「ウチのチビがなあ、こないだ学校で……」
なんていったりする。だらしない。
「連合赤軍みたいになったらどないしよう、思《おも》て心配やねん」
なったっていいではないか、腕白でもいい、逞しい赤軍になってほしい。どうせ他人の子だ。
「子供にも�恍惚の人�読まそか、思てんねん。いまに老後見てもらわんならんさかい」
これでも男か、と思う。女がそういうのなら話は分るが、大の男が子供に老後を托そうとヌケヌケいうところが、なさけないとも何とも。
男は一匹の老いたる狼となって曠野を行け。
内心はこの子にかかろうと思ってても、ヨソの女にそんなことしゃべるな。
男にジャリの話をされると、女はどっち向いてたらいいのか、わからない。いたく相槌《あいづち》に困るのだ。色けもとんでしまう。
しかたないから、作り笑いして、
「かしこいのねえ」などといい、
「先がおたのしみねえ」というと男はもう有頂天。
しかし女は酔いも恋もさめて、時計を見て、まだ終電に間に合うわ、なんて思ってる。
それから、独り者の女なら、自分も早く誰かと結婚して子供作ろうかとか、家庭もちの女なら、ウチの子はもう寝たかしらとか、里心がついてしまう。
おたがい、ジャリの話は外ではしないようにいたしましょう。ジャリのことしか、いうことがないというのでは、人生あまりにも哀れ、ジャリのことを自慢するよりは、わが道具、女房の道具を自慢するほうが、まだしもマシである。
自宅をたずねてジャリが出てくるのは、これは仕方ない。財閥ではあるまいし、どこの家も似たりよったりに狭いから、ジャリはちょろちょろ出没する。しかし、夜に入って酒が出る、食事が出る、そういう席までジャリが出てくるのは困る。坊やいくつ? からはじまって、お歌をうたったりお遊戯したり、オトナの注目と関心をあつめたとみて、いけすかないガキはますますのさばり、わがもの顔に|ほたえ《ヽヽヽ》まわって(はしゃぐ、ふざける、という意の大阪弁)|いちびり《ヽヽヽヽ》(調子にのってつけあがる、さわぐという大阪弁)、それを、亭主も女房も目尻下げて見てる、なんてもう、私は弱るのである。
いい男であると、子供は隣室で眠らせ、あるいはテレビをおとなしく見させ、見ぐるしきボロはみな隠し、酒席にまでのさばらせない。そういう男は外でもジャリのジャの字も口にしないようである。かくしどころは、ちゃんと包み隠しているのである。里心の出ないように、現実的な話はしないのである。
これは、男だけに限らない。女だって、外では亭主や子供のことは考えまいとして必死に飲んでいる。その悲愴感は「桜桃」を書いた太宰治より、強いのである。里心は男より女のほうが専門だからだ。それでも歯をくいしばって酒を飲んだり、色けのある話をしようとがんばってるのだ。まして男ががんばってくれなくちゃサマにならないではないか。