はずかしい話のつづきをしましょう。何しろ、いまやこの昭和の大御代、はずかしいなんていう感情は、珍無類の骨董品風のものであるらしく、どっちを向いても、あまりはずかしいなんてコトバが出てこない。
たとえば、日中友好なんてこと、今は草木もなびいて友好ムードの風の吹くままであるが、ひと昔前は、日中友好というコトバさえ、発音もできないほど迫害された。
今はどんな代議士もチャカチャカと日中問題を論じ、われもわれもと中国へいきたがる。
いかにそれが政治だとて、私は、はずかしい。しかしそういうことをはずかしく思うような人間が、代議士になるはずないのだ。選挙の「使用前・使用後」のかわりかたを見ても、はずかしいなんて考えていた日にゃ、この商売、張っていけない。
猫も杓子も中国語を習い、それはそれでかまわぬが、私のごく個人的な体験、偏執的な感想を申せば、中国語には痛みの記憶がある。
対中国の戦争があったころ、私は小学生の童女であった。そのころ、中国大陸で戦う日本の兵隊サンのニュースと共に、中国語が内地にもたらされてきた。
苦力《クーリー》、姑娘《クーニヤン》、小孩来々《シヤオハイライライ》、|再 見《ツアイチエン》……新聞には、城壁に一ばん乗りの日章旗を掲げた兵隊サンや、クリークのそばの草むらで、シナの小孩《シヤオハイ》(子供)と談笑している兵隊サンの写真があった。子供の私は、日本の兵隊サンは強く正しく優しいもんだと信じていた。
しかるに私の級友は、彼女の叔父が復員してきて、村の姑娘たちを一軒の家にとじこめ、外からカギをかけて焼き殺したというみやげ話をした、といった。そうして絶対、これはほんまのことや、と級友はおごそかにいった。私は「日本の兵隊サンがそんなこと、するはずない」と必死に抗議して、しまいにワッと泣き出した。
いま、一二三四五六七八《イーアルサンスーウーリユウチーパー》……という語を聞いてさえ、私の胸はやるせないような、はずかしいような痛みにおそわれるのである。
政局の風の吹くまま、おもむくままに、はじもせず顔を右向け左向けして歌っている人々を、私はただじっとながめているだけである。
さて、私の女友達のひとりのハイ・ミスに、はずかしいことって、どんなこと? と聞いてみたら、最近、ある男と親密な関係になった彼女は高等政策上、バージンをよそおっていたが、とうとう、ヤツと寝る|はめ《ヽヽ》になった。一生けんめい、「あら、お止しになって」などと思い入れよろしくあって、「痛い痛い」などといっていたら、男はうち笑い、
「ほんまかいな」
といったそう、女友達はいたくはずかしく、
「あいつ、いやらしい奴ちゃ」
と憤慨していたが、それは私、思うに、あいつはともかく、大阪弁のなせるわざではないか。「ほんとかい?」などと東京弁で歯切れよく聞かれるよりは、「ほんまかいな」などとやられると、はずかしさ、いや増す。
どうも大阪弁には、人をひやかす、おちょくるところが多く、水をぶっかける、水さすときに最適の言葉である。こういうのを「ペケかます」というのではないか。関西の言葉にあるが、今はあまり使わないので、「ペケかます」がどういう風にもちいられたかわからないが、語感としては、わが女友達の遭遇した難儀の場合にあてはまるようである。
神戸開港のころの俗謡にも
「二度と行こまい 兵庫の神戸
行《い》たら異人が ペケかます」
というのがある。この場合は、異人の巧妙な商取引に翻弄されることをいったのであるか。
私は、やはり思うに、わが俗なる根性が露呈したときがはずかしい。
たとえばバイキング料理。
欲深なる私は思わず皿にいっぱい、戦利品をせしめてテーブルヘ帰り、食べはじめる。しかし隣りのテーブルの人が、別な料理をとってくるのを見ると、また猛烈にほしくなる。取りにいく、そして結局食べ切れず、ボーイさんに折箱を下さいといって、バイキング料理ですからお持ち帰りはごかんべん下さいとたしなめられてはずかしい思いをする。
私のべつな友人、男とさるホテルヘいき、あとで引きあげるとき、ベッドが乱れてるのがはずかしいといった。それで、けんめいにシーツをひっぱって、ちゃんとしとくのだそうだ。
チリ紙などやわらかい屑はトイレに流し、流せないものはビニール袋と紙袋に包んでお持ち帰りになるそう、この頃はあとしまつのわるいアベックが多いから、この羞恥心は、女の身だしなみとしてめでたいことであろう。
「おそろしくしたと掃き出す出合茶屋」
という川柳があるところをみると、江戸時代のアベックも、あとしまつはわるかったのかもしれない。
やっぱり人間も、ひととし拾うと、羞恥心が身にそい、することが奥床しくなるのではなかろうか、尤も中年老年になっても、平気で乱れっぱなしにして出る人も多いであろうが。
しかしカモカのおっちゃんはにがにがしげに、
「あほかいな、そんなはずかしがるのなら、はじめからホテルなんかへいかなんだらええねん」
もう一人の友、これはキスするとき、はじめは目をつぶってたのに、相手がどんな顔してるだろうかと目をあけてみたら、相手もちょうど目をあけていて、目と目があってはずかしかったといった。そうしておっちゃんに、
「ええ年して、キッスなんかするさかいや、せなんだら、はずかしい目にあわんですむねん」
とたしなめられていた。
またある友(これも女の子である)、途中でいろいろ体位を変えるといい(何の途中か、私にはとんと解《げ》せぬが)、
「そのとき、思わずすぽんととりはずしてしまうねん、それがはずかしィて……。何で、ということないけど、ああいうときはずかしいわァ」
という、おっちゃんは、どういう風にとりはずすのか、克明仔細に聞きただし、おもむろにひとこと、
「何がはずかしい。また納めたらしまいや」