戦時中は、標語が多かった。
私がいちばんきらいな標語は、「生めよ殖やせよ」であった。
いったい、戦時中の標語というものに、たのしい、うれしいものはない。
それは当然である。
倹約、耐乏、克己、自制、忍耐を強い、叱咤激励するものばかりである。戦争というものは犠牲を要求するものだから、しかたがない。
「ガソリンの一滴は血の一滴」
「ぜいたくは敵だ!」
「欲しがりません、勝つまでは」
「元帥(山本五十六のことだ)の仇は増産で!」
などの上に、標語の主とでもいうべく、金色サン然として君臨している標語は、
「撃ちてし止まむ」
で、戦争の完遂、敵のセン滅をうたうものであった。
それらのものは、まだよい。戦時下のマジメ女学生として拳々服膺《けんけんふくよう》を誓うべき、立派な標語に思われる。私は「かよわい力よく協《あわ》せ」の歌の通り、神国日本の勝利を信じて疑わず、動員先の工場で、学徒工員としてけんめいに旋盤を操っていたのだ。
しかし、「生めよ殖やせよ」などの標語にぶつかると困ってしまう。
どっち向いてたらいいのか、わからない。はずかしい。
この標語も、当時の軍部としては当然のモノであるかもしれない。厖大な数量の兵員を投入しなければならないから、補充に追われる。次から次へと兵隊は要る、早く生め、殖やせ! と、女たちの尻を叩きたい心境であったろう。人口政策なんて高尚なものではない、もっと焦眉《しようび》の急の、思いつきである。いろんないい廻しを考えていられない、あわてふためいて軍人は筆をとり、ムキツケに書きつけ、配りつけたのが、
「生めよ殖やせよ」
である。
「あんまりハッキリしすぎてまんなあ」とでもいう人があれば、軍人は口ヒゲをひねり、剣の柄《つか》を叩き、
「どこがいかんねん、この通りやないか!」
と怒号したであろう。
しかし、生む、なんてそもそも、ニワトリの卵じゃなし、ポコッポコッと無精卵ができるというわけにはまいらないのだ、生む、殖やす、という作業の前には、もう一つ工程があるのだ。繊細敏感な思春期の女学生としては、「生めよ殖やせよ」ということから、その前の工程に思いを馳《は》せ、すると、その標語を見ただけで動悸がし、顔赤らみ、こんなコトバを堂々と衆目に曝《さら》してはじない、オトナ全般の無恥ぶりを憎悪せずにはいられないのだ。
更にそれからして、戦時中のオトナのいやらしさかげんといえば、われわれコドモがいるのに、近所のおじさん、おばさん相寄り、町内の復員した男たちを、「種付けに帰させた」と声高に噂しているのだ。戦争も末期になると、復員なんてことはなくなったが、まだ、早いころには、戦時中にもかかわらず除隊になって内地へ送還されてくるのもいたのである。復員の男たちはたいてい、再度、応召されて出ていった。しかし二度めのお召しのあるまでに、その妻たちはおめでたになるのも多かった。そうしてオトナたちは、それを以て政府、軍部の工作の結果によるものと考え、「種付けに帰さしよった」などとしゃべりちらすのである。
無垢な、新雪の如き乙女心が、いかに傷《いた》めつけられたかは、想像の外である。
乙女の私が憎んだのは、「生めよ殖やせよ」といい「種付けに帰させた」という、その作為的な発想に対してである。乙女の私は、愛は、作為や人工のものであってはならないと思っていたのである。
「種付け」などにいたっては、言語道断である。男女が愛を交すのは(その実体は、むろん、知るよしもないが)種を付けるためではない、とかたく信じていた。では何のためかといわれると困るが、それらはすべて自然発生的なものだと信じていた。生むも殖やすも派生的なことであって、それを主体にするとは主客転倒である。しかるに女学校の体操や徳育でさえすべて、健やかな子供を生むための、健やかな母たるべし、というのが目標であった。どっちを向いても本末転倒だらけ、いやらしいが、中でも「生めよ殖やせよ」と「種付け」は許せない。人間に対する冒涜《ぼうとく》である——なんて高尚なことを考えたのではない、ただ、神経にさわっていやらしかっただけである。
しかし、妊婦たちは、堂々として歩いていた。銭湯へゆくと、湯上りの妊婦が立ちはだかって腹帯を悠々と巻いている。
サラシなんぞは入手困難な時勢であったから、日本手拭い、あの字や日の丸を染め出して額に鉢巻きしたりする、あれの古手を何枚も縫い合わせて、腹帯にしている。
ちょうどオナカの上に「堅忍持久」などという字がバッチリきて、いかにも似つかわしく、更にもうひと巻きすると、「神風」などというのがきて、これも適切、風を切って「そこのけ、そこのけ」という恰好で、オナカをつき出して突進するのが、乙女の私には、悶絶せんばかりのはずかしさであった。
オトナというものは、もう処置なし、だと思っていた。「生めよ殖やせよ」と連呼し、「種付け」にせっせといそしみ、大きなオナカを見せびらかして闊歩《かつぽ》する。女学生にとって、オトナは怪物である。なかんずく、妊婦を見るのがはずかしいということに、女学生自身、耐えられない。妊婦をはずかしがっているということを、人に知られるのがはずかしい。女学生の羞恥心は屈折しているのである。女学生の想像力が、途方もなく鋭敏なために、オナカの大きくなる因果関係に思いをはせ、七転八倒してはずかしがっているのである。
外へは、はずかしがっていることを見せられない。「何ではずかしいねん」といわれるとよけいはずかしい。はずかしくない顔をして、はずかしがっている。そんな女学生が私であったのだ。
それにくらべれば、まあ、いまのおせいさんはどうであろう。近来とみに中年太りした私は人が「おめでたですか」というと、これは地腹《じばら》であると大声で答え、普通の既製服では合わぬのでマタニティドレスの売場を漁《あさ》り、ときによるとワザとオナカをつき出して電車の中では席をせしめるのである。