「今でも大阪では、娘さんのことを、|いとはん《ヽヽヽヽ》とよびますか?」
と東京人によく聞かれる。
今はあんまりいわないようだ。たいがい戦後は「お嬢さん」で統一されてしまった。
それに、「いとはん」はみな近郊へうつり、船場に昔ながらの住居をもっている大家《たいけ》もなくなった。土一升金一升、ビルが建って高速道路が頭上を走る大阪市内に、住んでいられるわけがない。
「いとはん」は、だいたい、大家の娘の呼称であって、あんまり熊公八公の娘には呼ばぬようである。|いと《ヽヽ》はんの|いと《ヽヽ》は「いとし児」「いとけない」の|いと《ヽヽ》だといわれる。古語では、男女両方を指すが、近世はもっぱら娘である。「いとしい和子さま」という意味なのだ。大阪弁というのは古雅なものではないか。
娘が何人もいると、大《おお》いとはん、中《なか》いとはん、小《こ》いとはんという。私たちが小さい頃、よく聞いたのは、小いとはんを略した「こいちゃん」「こいさん」という言葉である。
「こいさんのラブコール」なんていう歌もあるが、「恋さん」ではなく「小《こ》いさん」なので、妹娘のことなのだ。私の友達にも「ウチのこいちゃんがなあ……」と妹のことを話す子がいた。町内の噂話に、「おヨメにいかはったのは、××はんの、|こいさん《ヽヽヽヽ》の方だす」などという。
これも、あまりに貧弱な家には使わない。
而して、やや品下《しなくだ》れる向きの娘には何と呼ぶかというと、「い|と《ヽ》はん」の「と《ヽ》」から転じて「とうちゃん」というのがある。父ちゃんではなく、嬢《とう》ちゃんである。私のウチは写真館であるが、私は町内のおじさんおばさんから「嬢《とう》ちゃん」と呼ばれて育った。妹は「小さいとうちゃん」である。松竹梅のクラスがあるとすれば、その下の梅クラスは「娘はん」である。私も陰では「写真屋の娘はん」であったろう。
「お嬢さん」という言葉は品格からいうと等外というにやあらん、しかし、すべてをこれで統一するというのも、民主的でよかろう。かつ、現代のいとはんは、たいがい芦屋、西宮、御影、宝塚、あるいは浜寺、帝塚山に居宅があり、甲南女子大、聖心、神戸女学院、帝塚山短大などへいったりしてテニスの妙手、ピアノの名手が多かったりし、万博コンパニオンなど遊ばして、財閥令息と結婚、ゴルフのうまい、美しく若き副社長夫人などにおなりになるのだ。
「十七や難波はふるき中《なか》船場
すだれの奥に 琴|弾《ひ》きにけり」
というのは、茅野雅子の娘時代の歌であるが、彼女は明治の道修町《どしようまち》の薬種商の娘である。奥ふかい座敷ぐらし、外へ出るにも縁先から俥《くるま》で、土を踏んだことのないという生活だったそうだ。そういうのこそ、「いとはん」であったろう。
ところで、私が入学した女子専門学校は、古くからそのたぐいの浪花のいとはんが多く入るところであった。私一人が、場ちがいだったわけである。
私は女専へはいって、あまりにも校風が優美柔弱であるのにおどろいた。その前の女学校で、われわれの年代の少女は、すっかり体質改善されていたからである。時局にかんがみ、ことごとく軍隊式秩序になって「気をつけッ!」や「かしらァ中ッ!」という号令に慣れていたのだ。しかし女専は、そういう煩わしいこともせず、先生方も、一人前のレディ扱いで、上級生のおねえさまも、たよたよした風情、われわれのように「ハイッ」「そうであります」「いいえ、ちがうのであります」などと直立不動の切口上でしゃべったりしない。
私たち新入生は、ずいぶん柔弱だと思ったが、上級生も、「えらいハキハキした人らや」とおどろいたそうだ。そしておねえさまたちにいわせると、
「これでも、だいぶ軍隊式に、新時代ふうになったんやわ」
ということだった。上級生や先生方の話では、その五、六年前ぐらいまでの生徒は、全くのいとはん育ちが多かったそうである。教室であてられても、ナヨナヨと袂を握って、
「調べてけえしまへんなんだよって、わからしませんのだす。ごめんやす」
などという。着物にグリーンのはかま、絹のくつしたに黒い編上げ靴、というのが制服で、着物は銘仙にきまっている。みんな、ガツガツと勉強する人もなく、黄色い声で、
「お早うございます」
といい交し、教室といっても女紅場《によこうば》のかんじ、のんびりおっとりして、みんな運動神経がにぶく、中には、作文を書くのに、どうしても原稿用紙の桝目《ますめ》に字がきちんとはいらない、というような鷹揚《おうよう》ないとはんがいたらしい。先生に注意されて、恐縮しながら、
「性分《しようぶん》でんねん——なおらしまへんのだす」
といったそうだ。
そういう伝説的ないとはんには、もう私たちの入学した年、見ることはできなかったが、それでも、私たちより二年上ぐらいの最上級生には、まだその片鱗はあった。その頃はもう、制服はレディふうの紺スーツになっていたが、タイトスカートの細腰が楚々《そそ》として、ずんぐりむっくり、芋太りの軍国女学生とはえらいちがい、色白く声ほそく涼しげなおねえさまたちが校内を案内してくれる。私は国文科だから国文科の美しきおねえさまがついてきてくれる。
「ここが図書館、ここが食堂。——あれは寮」
地方から遊学している生徒のために、校内の一隅に簡素な寮があったが、おねえさまはその寮の中まで見せてくれた。四畳半の美しい日本間、窓があって押入れがあった。机上はきちんと片付けられ、花一輪、いかにも女の子の部屋。おねえさまは何思いけん、押入れをあけて私たちに見せた。下の段にはこまごました荷があったが、その空間を指して、
「ここでなあ、ひとりではいるのん好きな人いやはるねん……相部屋の人が帰ってきて、うなり声するさかい、びっくりしてのぞきはったらまっかになって汗かいてはってん」
「病気やったんですか?」
と私がきいたら、美しいおねえさまは肩をすくめてうす笑いし、
「二人ではいって汗かいてはるひともいやはるねン……」
押入れの利用方法は代々のいとはんに伝承されているようであった。