このあいだ、ある大新聞の週刊誌で野坂昭如センセイと対談していたら、突如、停電となる。センセイ自若として「焼跡派は停電を恐れぬ」などとうそぶいていらしたが、その間、私は必死に、
「あら、お止しになって」
と叫んでいたのだ。しかるに本になって出たのをみると、その一行はカットされておりましたね。真実を報道するのが新聞の使命とはいえ、品位と名誉ということも考えなけりゃならん、このカットはやむをえまい。
また、ある大放送局で、井上ひさしおにいさまと、私は、井原西鶴のことにつき、高邁《こうまい》なる文学論を展開しておったところ、おにいさまはその結論として重々しく、
「西鶴を再確認《ヽヽヽ》しなければいけない」
と仰せられた。これはこの日の放送のハイライトの言葉であるにもかかわらず、大放送局はこれをカットした。これはよくないと思う。これ以上の立派な論評はないのだ。
すべてカットということは、このように取捨選択の結果である。いろいろ勘考して選択するのであろうが、その結果、よい場合と、あんまりよくない場合があるのは、右二つの例にかんがみてもあきらかである。
男性が男性自身をパイプカットするのも、結果がいい場合とわるい場合があるので微妙である。
本来の目的は、断種というか、子供をつくらないことであろうが、これもなかなかむつかしくて、未来|永劫《えいごう》と思った夫婦仲にヒビが入り、再婚したりする、次の女房が子供をほしがったりすると、ハタと困ったりする。
しかし、人間がどうしてそんな未来のことまで見通せよう。何か、かんかいっても、しょせんはごくごく目先のことしか考えられないものである。
「徒然草《つれづれぐさ》」によると、古《いにし》えの賢人、聖徳太子は、陵墓の造営に当って、墓相上、子孫繁栄の反対のことばかりした。
「ここを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」
といわれたそうで、切ったり断ったりするのは、すでに、その頃からのことであるらしい。
妻は両手に子供、背中に一人くくりつけ、亭主は両手に双子を抱いているといった、そういう夫婦を見ると、これはカットしたくなるだろうと同情せずにおれない。いや、そういう必要に迫られてという場合のほかに、私の女友達のように、いちいち避妊の配慮がわずらわしくて、という不埓《ふらち》な不心得者がいたりするから面白い。
そして夫にカットさせてどうかというと、
「それがねえ」
と意外や、浮かぬ顔。
「はじめはノビノビと楽しめると思ったんやけど、だんだん、また物足らんようになってきて」
つまり、日を勘定したり、体温計ではかったり、薬を使ったり、して避妊しているときは、いつもイライラして取越苦労やら、肝を冷やすやら、クサるやらホッとするやら、「ヒエーッ」(ひょっとして、やったのではないかというときの女の内心の悲鳴。あるべきものが少しおくれると、たいていの女はこう悲鳴をあげるそうである)などと、たいへんだったというのだ。
しかしその心配がなくなって心気爽快になったかというと、これがさに非ず、いつでもOKとなると、だんだんあほらしくなってきて、今ではあんまり、双方とも熱意がなくなったそう。
思えば、
「今日よ! 今日は大丈夫なのよ、あなたッ!」
「おお、そうか!」
と夫婦、相和して息弾《はず》ませていたころの緊迫感がなつかしいという。イライラしたり、胆を冷やしたりの気苦労は、つまるところ、生き甲斐だったのかもしれへん、という。
私の友人のホステス(これは例の、気短かで、元気のいい若い女である)、
「男のひとの中には、カットしたから大丈夫や! いうて、ものすごい自慢にして、それを武器にする人あるけれど、何か、こっちは気がぬけたりして」
といっていた。
どう気がぬけるのかと聞いたら、
「やっぱり味がちがうのよ」
というが、これは、私にはわからない。カット前は味が濃くて、カット後は味が淡いそう。何の味かは聞き洩らした。
これも私の友人、四十六のうばざくらの美人記者、
「男にカットさせたら、妊娠の不安からは解放されるし、前も後《あと》も、私は変りないと思うわよ。ただ、こっちの気持の問題だけよ。空砲一発、というのがむなしい感じねえ」
とのたまう。
だから、世の大方の奥さまが、亭主にカットさせたら浮気するんじゃないかと、心配していられるのは、杞憂というものである。
安心して寄ってくる女もいるであろうが、女という女がそうではないのである。うばざくらの美人記者のように、
「空砲じゃ、精《せい》なくてねえ」
という、あまのじゃくな女もいるのだ。
といって、もし実弾が命中したら、「ヒエーッ」というくせに、空砲だと精ないというのだから、全く、聞いていたカモカのおっちゃんが、
「どないせえ、ちゅうねん、いったい」
と怒るのも尤もであろう。
「おっちゃんは、カットする気はありませんか」
と聞いたら、
「身体|髪膚《はつぷ》これを父母に受く、という教育を受けた時代です。しかし、まあ、してもせんでも、今はもう空砲みたいなもんで変りおまへん」
といった。
「変りないなら、した方がいいのとちがいますか」
と美人記者。
おっちゃんはとうとう、あたまにきたとみえ、
「カットせなんだらせえ、という。したら、せん方がよいという。どっちでも一緒や、いうたら、した方がええいう。女のいうことにいちいち、マトモにつき合《お》うていられるかッ! とるに足らぬ下々《しもじも》のタワゴト、いちいち耳傾けてられん」
と怒るが、道聴塗説《どうちようとせつ》、これ天の声。