「男きてなれ顔に寄る日を思ひ 恋することも もの憂くなりぬ」
これは与謝野晶子の歌であるが、この歌なぞは、彼女が恋の種々相を人しれず知りつくしていたように思われる、ちょっと凄い歌である。私は晶子の歌は、中年のころのが、いちばん好きである。
晶子はよい歌をよむには、恋をしなさい、と弟子たちにすすめたそうであるが、右の歌も恋を「知りつくす」のみならず、「しつくした」女でないと、よめない気がする。
私は、馴れ顔に寄ってきた男は、この場合、きっと若い男ではなかったかと思う。
若いヤツはすぐ馴れ馴れしくする。
何か、ヒッカカリができると、人前もはばからず、咳払い、目くばせ、体にさわる、言葉遣いがかわる、二人きりになりたがる、知ったかぶりする、もう、煩わしくてしかたがない。
女とのことを、いいふらすのは論外である。
いいふらさないまでも、「色に出にけり」で、すぐ人に知られてしまう。そういう馴れ馴れしさが、可愛らしいときもあるが、それは、まだ女が、恋の経験が浅いときではあるまいか。
あまたの恋をしつくした|手だれ《ヽヽヽ》の女だと、もう煩わしくて「もの憂く」なるのかもしれない。私が「ちょっと凄い」というのは、その恋愛心理の洞察のことである。
若い男が、女と関係ができて夢中になってつい、女に馴れ馴れしくふるまい、女の不興を買い、世間の指弾をうける、というのは、一面また、その男のうぶさかげん、若々しさ、世間しらず、人ずれしてない証拠でもあろう。だから、そういう青臭みを好む女には、ほほえましいかもしれない。
しかし、若い男で、恋した上の馴れ馴れしさとは別に、誰にでもいつでも馴れ馴れしい奴が居り、これは道化ものである。そういう男は美人、醜女の別なく馴れ馴れしくふるまい、また、そういうオッチョコチョイの道化ものに、あたまのいい、美しい女がコロッと落ちてひっかかったりするから、世はおもしろい。
そこへくると、わが中年男は、やっぱり、「色に出にけり」というふるまいは、せんようですな。
女と関係ができても知らん顔をしているから、めったなことでシッポはつかまれない。伊達《だて》に中年になっているのではない、こういうときに値打ちがでるというものだ。
人によっては却って硬くなったりして、ぎごちなくなり、よそよそしくなる純情なのもいるが、概して、気取《けど》らさないように隠しおおせる人間が多い。
かりそめにも、馴れ顔に女のそばに寄ったりしない。
第一、若い奴は、夢中になって、馴れ馴れしくして世間の非難や擯斥《ひんせき》を浴びても、失うものはないのである。若い男はパンツ一丁あれば世渡りでき、どこへでも仕官して、足軽・仲間《ちゆうげん》・草履取り、一からはじめることができる。
しかし、わが中年族は、そうは参らない。
秘めたる情事が明るみに出たら一国一城を失う場合がある。文字通り、傾国《けいこく》・傾城《けいせい》である。ゆうべ仲好くした女だからといって、会社へ来てまでそのつづきをやるわけにはいかないのだ。
だからして、私は、ほんとうの恋というものは、そういう年代からはじまると思うのである。
馴れ顔に寄るような年ごろは、小犬がじゃれてるようなもので、オトナの恋とは、いいにくい。
私がもし恋をしたとしても、ちょっとナニしたらすぐ、馴れ馴れしく寄ってこられるようでは、とうてい、ナニする気にはなれないのでございますよ。尤も、私では千年万年待ったとて、ナニしようとする男は出ないであろうが。
女とナニがあったとて、二人きりの場以外は毅然《きぜん》として、知らん顔を押し通せるほどの胆《たん》、甕《かめ》のごとき豪傑、深沈とした度量のひろい男でなければ、女はナニする気にはなれない。
どうかすると、すぐすっぱぬかれ、もろともに検察庁へつれていかれるような男では、女は、名誉や愛やいろごとを託す気にはならないのである。
ところで、そういう豪傑でも、彼らの妻にかかると、手《ヽ》もなく看破されるのは、いかなるわけであるか。
どういうときに彼らの妻たちがピンとくるかという例につき、佐藤愛子さんは面白い話をいくつもあげている。
ある女は、帰宅した夫の靴が、雨の日にもかかわらず濡れていなかったという。
ある女は、夫がパンツを裏返しにはいているのを発見した、という。これらはみな「ピンときた」という部類で、理屈では割り切りにくい。
芝木好子氏の小説だったと思うけれど、スキ焼きをつついていた三人の男女、(その内訳は夫婦と、妻の女友達である)その箸使いから微妙な関係が暗示されるのを、妻は悟るというのがある。
夫は、妻の女友達に、「このへんの肉ができてる」とかいいながら、箸で押しやる。男の箸と女の箸がふれる。
スキ焼きだから、箸のふれあうのは当然である。
しかし妻は、そのふれ具合によって、はっと、夫と友人の関係を察知するのである。これも「ちょっと凄い」話である。
このように、男というものは、一見、沈着自若とした中年者でも、どうかすると、馬脚をあらわす。
オッチョコチョイで、馴れ馴れしくお道化者の男、はたまた、平生は沈着でも、女とナニすると、とたんにその女に馴れ馴れしくふるまう男、落着いてるくせに、ヒョイとしたところで化けの皮のはがれる男、さまざまであるが、わがカモカのおっちゃんなどは、どこの範疇《はんちゆう》に入れるべきなのであろう。
「カモカのおっちゃん酒提げて、またも来ましたおせいさん」
「コンバンワー。あーそびーましょ」
というのは、これは馴れ馴れしいくせに落着いてるようでもあり、頼もしいかと思うとアテにならず、要するに中年の「図々しさ」の代表選手というにやあらん。
「馴れ馴れしい」よりもっと始末にわるいのが「図々しい」奴であろう。
「男きて図々しく寄る日」の物憂さ。察して頂戴。