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女の長風呂75

时间: 2020-06-25    进入日语论坛
核心提示:旧仮名と処女このごろ、古典を読む仕事をしていて、旧仮名を見なれるにつれ、旧仮名の美しさになじみ、文章が、いかにも綺麗に思
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旧仮名と処女

このごろ、古典を読む仕事をしていて、旧仮名を見なれるにつれ、旧仮名の美しさになじみ、文章が、いかにも綺麗に思われる。
何といっても、旧仮名で育った世代ゆえ、体の方がなじんでいる感じである。
「あおげば とうとし」なんて書くよりも、
「あふげば たふとし」と書く方が、ゆかしい感じがする。
「とうとき みくらい」なんて、ちっとも、尊くない感じ、
「たふとき みくらゐ」とやると、まさしく、ひとりでにあたまが下る字づらである。
「わが母のおしえたまいし歌」こんなのは、野良唄じゃなかろうかね。
「わが母のをしへたまひし歌」とくると、崇高なアベマリアか、典雅な子守歌を思い浮べずにはいられぬ。
そもそも、私の生涯の、というより、私がこんな時代に生まれ合わせた一大痛恨事の一つは、戦後、旧仮名が新仮名に直されてしまったことである。
国語審議会もいい分があろうが、「教へる」「あふ」などを、「教える」「あう」と変えて、どうちがうのかと思う。あ|ふ《ヽ》の|ふ《ヽ》には長い歴史と必然的な文法があるのである。
むしろ私がふしぎでならないのは、助詞の「へ」や「は」を「え」「わ」にしなかったことで、こっちの方は、直してもよかりそうに思うのに、それは、そのままになっている。
むつかしい理屈があるのだろうが、旧制女専国文科卒程度の学力では、けったいな改革だといぶかしむだけである。
しかし、新聞も雑誌も、どんどん新仮名づかいになり出した。私は一人、孤塁を守っているわけにはいかない。思い切って、文章を新仮名づかいで書いてみた。何とも、いいようのない、一種、サディスティックな気持である。
思えば満六歳のとき小学校に入学してから叩きこまれてきた旧仮名づかいなのだ。
それは教養のシンボルでもあった。大学卒といえども、昔は、
「仮名づかいをまちがえた」
などと書くと、
「アッ、この男、大学卒などといいながらこんなこと書いてる、学歴詐称ではないか」
と疑われるほどだったのである。
教養のある人は「仮名づかひをまちがへた」と書く。発音通りに書くのは、外地向けの日本語教科書だけで、国語の教育は、あげて仮名づかいを正しく書けるということにつきていた。
その教養のシンボルを、まさに土足でふみにじって、わざと無教養な人しか書かない発音式で書くのである。文法も何もメチャクチャになる気がして、気持わるいったら、なかった。
しかし、しばらくそれで書いているうちに、私は、私の文章が変ってきた気がした。
新仮名遣いの愚劣な字づらは、その代りに、あらゆる一切の権威や拘束や、制約をも、ふきとばしてしまうのである。
教養のシンボルをふみにじった以上は、既成の文章の約束ごとも、足もとへ崩れてしまったのである。
愚劣なことが、平気で書けるようになった。文体が変ってくる。
実にノビノビ、自由に書けますな。
新しき酒は新しき皮袋に盛るべし。私は文章の世界が、ひろがったような気がしたのである。
「これを、たとえていうと——」
とカモカのおっちゃん、
「処女を失《うしの》うた時のようなものでっか」
いやですよ、そんなこと——。いまどきの若い子じゃあるまいし、初体験がどうのこうのと、公開していられますか、ばかばかしい。
でも、タトエとしては、あんまり見当はずれではないのではないか。
とびこえるときは、エエイッと目をつぶっちゃう。
まっ白な靴で、雨のぬかるみ道へ一歩、ふみ込むみたい。
しかし、いっぺんそれを敢行すると、思いもかけない世界がひろがるのである。
まして、戦後の無秩序な、混沌の世相と、人間を表現するには、打ってつけの文体が、新仮名づかいで可能である。今まで見たことのない文章ができるかもしれない。
つまり、仮名づかいなど、どうでもよいという、八方やぶれの文章も可能である。出口はあちこちにできて四通八達、天衣無縫の生き方ができる、処女性を捨てた女と、よく似てるといえばいえよう。
さりとて、旧仮名がわるくて、新仮名がいいとも、かぎらない。そこも、処女と同じ。
誰にもかれにも、処女を捨てろとすすめられない。
もし、人生案内で、そんなことをいって、若い、物知らずの女の子をたきつける奴がいたら、それはニセモノである。新仮名を使う人はたきつけられなくても使うし、処女を死守する人は、四十五十になっても、神々しい処女のままでいる。
いまでも、旧仮名で小説を書いてる人を見ると、私は、やっぱり、おっちゃんのいう如く、処女を捨てない初老の女の神々しさを感じてしまう。一言一句もおろそかにせぬ、格調たかい文章を見ると、猫の仔といえども、オスは近づけぬ凛然《りんぜん》たる老処女の人生がほうふつとする。
さりとて、新仮名になれてしまった人間が今さら旧仮名にもどるのは、めんどくさいのと同じく、もう一度、昔の処女にもどしてやると神様にいわれても、たいがいの女、
「かんにんしてちょうだい」
というであろう。そこも似ている。
いったん、自由の天地、何ものにもとらわれぬノビノビした境地を味わったら、あほらしくて窮屈な旧仮名に、いや、処女の身に、戻ろうとは思わぬであろう(尤も、それと、新仮名遣いが強引で反文法的だということは別である)。
カモカのおっちゃん問うていわく、
「では、おせいさん自身、新仮名になったのはいつですか。文章ではないぞ。新仮名やぞ」
「(私、ウタウ)あれは三年まえ——」
なにいわすねん。それは「喝采」の文句やないか。
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