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女の長風呂76

时间: 2020-06-25    进入日语论坛
核心提示:男にもらうもの女は、男に何を与え得るか、ということを若い女性たちが議論していた。私は、(昔からそうだったが)特にこの所、
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男にもらうもの

女は、男に何を与え得るか、ということを若い女性たちが議論していた。
私は、(昔からそうだったが)特にこの所、イヨイヨ、マスマス、議論がにが手になって、酔わなければ議論などできない、酔えば言葉を忘れてしまう、どっちへ廻っても議論など、ダメになっちゃったのである。
しかたがないから聞く方にまわる。
女の子たちはカンカン、ガクガクとやり合い、男にない女の特質、秩序の平衡感覚がどうの、愛情、平和、律儀、マジメなどということをとりあげているが、しかし考えてみると、手ごたえのない議論である(もっとも議論は、手ごたえがないものだが)。
男の方から、女に何をもらったか、ということをあげつらうならともかく、女がやったものを論ずるのは、たよりないものである。
男の方が、
「そんなもん、もろたおぼえはおまへん」
というかもしれないからだ。
また、女がやったとしても、男が受けとるのを拒否するかもしれないからだ。たとえばバージンをやったとする。女はやったつもりで、大層に考えていても、男の方は気がつかなかったりして、張り合いぬけする。また、たしかにやったのに、
「ほんまかいな」
などと疑わしそうな無礼な男もいたりして、実にたよりない。やった、もらわぬ、という争いは、しばしば、水かけ論に終ることもあろう。
安らぎ、これが、女が男に与え得る一ばん大きなものとちがいますか、という女子大生もいたりするが、男は女から安らぎをもらうより、麻雀から、或は酒から、或は競馬からもらうことも多いであろうし、まあ、男と女、与えた、もらった、といい合うのは空しいものだ。
ただ、私の場合、小説を書くとき、ある情趣が湧いて男を描く。それは、ほんの些細なことを、男にもらって、感興を起こすことが多い。
その感興を、女にもらうことは、少ない。
私の好きな作家、森茉莉さんは、ある写真や絵を見て、それから小説を書くことがある、とどこかに書かれていた。——私も、そういうことがあるので、よくわかり、共感したのである。
たとえば彼女は、映画スターのジャン・クロード・ブリアリなどが出ている一葉の(映画の一場面の)写真から、感興を催して「恋人たちの森」を書いたといわれる。「枯葉の寝床」も、ある写真から、さまざまの情趣をくみとり、書かれたそうである。
私も、そういうことがある。そして私の場合、女も、たとえばマリリン・モンローの写真なんかから「猫も杓子も」という作品を書いたりすることもあるけれど、男の写真や、映画の男のしぐさ、いうことなどから得るものはたいへん大きい。
私が過去に、そういうことで、いろんなものをもらったのは、俳優でいうと、クルト・ユルゲンス、これはきらびやかな軍服を着ると、冴える男だった。
ロッサノ・ブラッツィ、この男はきちんとしたスーツ姿もよいが、よれよれのワイシャツ姿もすてき。
ジェームス・メイソンはやっぱり、イギリス紳士みたいにネクタイもしめてちゃんとしている方がすてきだった。何の映画だったか、コートを着ていて、とてもさまになっていて、見とれたことがあった、そうしていそいで書いたのが「山家鳥虫歌」で、そういうと人は笑うが、この短篇のどこにも、ジェームス・メイソンなんか出てこないし、それを暗示するような場面も人物もないのだ。田舎のバス道でバスが鼻面つき合せて、のけのかぬ、と二時間口論していたという小説の、どこに、このイギリス紳士の影響があるのか、われながら不可解。しかし、いいなあ、と思うと、むやみに小説が書きたくなったのらしい。
ゲーリイ・クーパーは、西部劇が本命みたいに思われてるが、初老のインテリ紳士などやらせると、いい味で、これは背広の上衣をぬいで、シャツにチョッキなど着込んでるところがよい。
ジャン・ギャバンは、きわめつけがよれよれのレインコートであろう。
デビッド・ニヴンというのは、スポーティなブレザーの似合う紳士。
ピーター・オトゥールとピエール・ブラッスールは、何を着てもすてき。
メル・ファーラーのセーター姿というのはちょっと心にくく、オードリー・ヘップバーンが惚れたはずみたいだし、マーロン・ブランドと、ラフ・バ口ーネのジャンパー姿もたくさんのものを、私にくれたものである。
モンゴメリィ・クリフトは、すこし着くたびれたスーツ、ジェラァル・フィリップは十八世紀風の、古い服がとても似合う、西洋骨董の陶器人形みたいな、いい男だった。
こうやってみると、みんな今はいい爺さんばかりで、若いのはいないが、すべて私にどっさりと、「情趣」という贈り物をもってきてくれた男たちである。
現実の男、知己・友人も、そう、といいたいが、現実の男性たちは、どうも複雑怪奇で、ようわからんところがあって、これは、私には何ともいえないのである。
その円満なる人格において私がふかく尊敬している大先輩・野坂昭如センセイは、酒場でホカの男がうたっているのをちょっとでもほめると、たちまち、
「アイツとオレとどっちが巧い」
と真剣に聞き、センセイの方だといわないと大へんなおかんむりで、私としては混乱するのである。
また、その学殖・識見においてふかく私が傾倒している小松左京氏は、
「高橋和巳の死んだのは、あの家の家相がわるかったせいだ」
と嘆いて、私を右往左往させるのである。
その才気・能力において私がふかく私淑している藤本義一サンに至っては、
「男はアホやと思うやろ? ナニ、思わへん? 思《おも》てえな。女が、男はアホやと思てくれな、男は安心でけへん。アホや、いうてえな」
と哀願し、私はもう何が何だか分らなくなってしまうのである。
現実の男たちは複雑怪奇で、私には何をもらったか、よくつかめない所がある。たぶん彼らに大きすぎる無形のものを与えられたので、迂遠な私には、全的に表現把握できないのであろう。現実に私が男からもらった、といえるのは、月々、亭主のくれる生活費、これはタシカであります。
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