あそこの名称について、考えたついでに、男や女がそれぞれの相手について呼ぶ、その呼び名を考えよう。
これも、じつにいろいろある。文語でかくと「家人」「配偶者」「夫」「妻」「情人」「愛人」とハッキリ、その関係を明示できる。しかし、口でいうとこれがむつかしい。人に紹介するときに、家人も配偶者も不適当、夫、妻もおかしい具合。
私の知人に、自分の妻のことをツマとよぶ(当然だが、耳できくとヘンだ)男がおり、「僕のツマがこない、いうとんねん……」などというが、好みの問題だから人のことはほっとけばよいようなものながら、落着きわるい語感である。荊《けい》妻、愚妻、ともに文語的なコトバで、会話中にさしはさむには趣味性が強すぎる。また亭主の方も「オット」と口語でいうのはおかしい、謙遜語がないので、「愚夫」「愚亭」ともいえず。
よって、世間大方の、耳やすきところの呼び名は「主人」「家内」であろう。「主人でございます」「家内がそう申しました」と使うのが一ばん普通でよい。
私たちの年上の時代の妻たちは、「宅が」といったりしていたが、今はもう聞かなくなった。
すこし気楽な会話だと、「亭主が」「女房が」などと使う。女房は、関東では「カミさん」であるが、関西では「よめはん」である。だから土岐雄三氏の小説の「カミさんと私」は関西ではもひとつ、ぴんとこぬ題で「よめはんと私」というと、よくわかる。
よめはん、というと他の地方では息子の嫁と混同するらしく、いつだか北海道へいって私の亭主が、私を指して「これ、うちのよめはんです」というと、「まあ、そんな大きな息子さんがおありですか」といわれとった。
関西では息子の嫁は、よめはん、とはいわない。「息子の嫁です」という。よめはん、というのは、自分のモノ、という語感があるのである。照れかくしに「はん」という敬語をつけるので、よめはん、というのは、よめさま、ということなのだ。しかし、よめはんの語には、|はんなり《ヽヽヽヽ》した感じがある。はんなり、というのは、抑えた華やぎ、というような関西語である。
「お父ちゃん」「お母ちゃん」という呼び方もある。「じいさん」「ばあさん」も、年がいくと耳なれしてよい。関西だとそのほか、「ウチのおばはんがこない、いうとんねん」「ウチのおっさんが……」などとも使うが、妻が「ウチのおっさん」という時は、やはり環境が限定される。そうでなければ使う人間の器量による。
職業により「ウチの関取が……」「ウチの先生が……」などとよんでいる妻たちもあるが、その世界の中でのことならともかく、無関係な人間の前では、不適当な場合もあろう。
大阪では、ときとして、「ウットコの子ォな……」などとよんでいる若い妻もある。「ウットコ」は「うちとこ」であり、「私どものところでは」という意味、早くいうと「ウットコ」と聞こえる。
「子ォ」というから子供かと思うとさに非ず、これが亭主を指すのだ。「子ォ」という言葉をてっとり早く説明すると、つまり、「万葉集」によくある、「何ぞこの子のここだ愛《かな》しき」というような、こういう「子ォ」の語感、つまり「かわいい・いとしい・庇護すべき・かよわい・面倒みずにいられない・愛らしい」生きもの、というようなかんじ、それが大阪弁でいう「子ォ」である。
だから、「ウットコの子ォ」といういい方をされる亭主は、たいへん妻に「可愛がられ」「大事に庇護されてる」亭主なのである。
それでいて、大阪の妻たちは、亭主にたより、亭主をまたなくえらい者と思いこみ、亭主のためには「火にも水にも」という感じがあって、一心同体のつもりでいる、そういうのもふくめて「ウットコの子ォ」という言葉になったりしている。これは、子供、つまり生みの子のときも「ウットコの子ォ」と使うのであって、亭主は亭主、子供は子供、とべつべつになったりしない。
亭主も子供もひっくるめて、女から見れば「ウットコの子ォ」になってしまう。そういう強い放射線に中《あ》てられる大阪の男は、たいへんである。
小松左京さんによれば、
「芸人の女房には、大阪女はあかんねんて」
ということだ。
「大阪女は、芸人が芽の出えへんとき、おち目のときも、身を粉にして尽くしよる。私が食べさしたげるさかい、あんた芸のことだけ考えてたらよろし、いいよる。そんな女にかかったら、大がいの男、骨ヌキになって大成せえへん。そこへくると京都の女はええらしい。合理的でうすなさけ、芽が出えへんかったらさっさと去《い》による。男は何くそッ思《おも》て奮発するねん」
などというが、一々、私は実地にしらべてないからわからない。しかしそんな一面もあるかもしれない。
「パパが」「ママが」というのも、大の男や女が人さまの前でいう言葉ではなさそう、女学校のクラス会で「ウチのパパが……」「ウチのパパは……」と聞くのもわずらわしく、甘ったれていていやみ。
私の亭主の友人に、「ウチの女が」という医者がおり、これは秀逸。
「ウチのオンナ、こない、いいよんねん」
などと使う。その先生の家庭には、老母もいるが、老母もオンナながら、これは「婆さん」とよぶ。而して、婆さんを引くと残る女は妻、しかしこの先生、「家内」「女房」「よめはん」「カミサン」悉《ことごと》く、含羞《がんしゆう》なしによべない、抵抗を感ずるという。そしてさかんに「ウチのオンナが」「ウチのオンナにきいたら」などという。これは、按ずるに「万葉集」でいえば「吾妹《わぎも》子《こ》が……」という、あの語感であろう。ウチのオンナ、は吾妹子にあたるのだ。
私はウチのオトコ、はどうかと考えた。しかしどうもおちつきわるい。「主人」と「ウットコの子ォ」の中ほど位のがあれば、と考えていると、カモカのおっちゃん、
「背の君はどうです? べつに体位にかかわらず、ええ呼び名や、思いますけどなあ」
四十男て、きらいやなあ、やっぱり。