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女の長風呂82

时间: 2020-06-25    进入日语论坛
核心提示:ヨバイのルール以前にもちょっとふれたが、「夜這い」というのは、いろいろ勘考すると、優に一冊の本が書けるぐらい、ゆたかな示
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ヨバイのルール

以前にもちょっとふれたが、「夜這い」というのは、いろいろ勘考すると、優に一冊の本が書けるぐらい、ゆたかな示唆に富んでいるものなのである。
「夜這い」は、本当は「呼ばい」です、とある人に教わった。
つまり、暮夜ひそかに垣根の外から「呼ばう」のである。呼ばわれた方は「あいよ」とか、これまたひそかに答える。山のこだまのうれしさよ。これが「呼ばい」というもんで、そのあとおもむろに巫山《ふざん》の夢をむすぶという段取り、「夜這い」なんちゅう、ガラのわるいアテ字を書くとは、おせいちゃんとも思えまへん、というお叱りであった。しかし弁解するではないが、結局、することは「夜這い」ではあるまいか。
ところで、この間、さる田舎へ出かけ、私はそこでもヨバイの研究をしてきた。
かねて私は、ヨバイに興味をもってはいたが、中でも殊に、「子供ができたらどうするか」というのが長年の疑問であった。既婚の女はよいが、娘はどうするのであろう。
村の爺さん二、三人、交々《こもごも》語ってくれた。その内の一人は、元巡査だった爺さんである。大正十二年に夜這い禁止令が出たのだが、現職の巡査であるからには、今後、お上《かみ》の目を掠めて夜這いすることはゆるされぬ。爺さんは(その頃はむろん、青年である)一瞬、考えた。
夜這いをとるか、巡査をとるか、なんの桜田門、君と寝よ、というわけで、直ちに巡査をやめた、という爺さんである。田舎の人には、ハムレットのようにとつおいつなやみ迷う、といった野暮はいないのである。
その元巡査の爺さんのいわくに、娘に子供がでけたら、好きな男の名から順にあげてゆく、というのである。その男が不同意であると、次に好きな男の名をいう。そのうち、どれかがウンといってくれるから、うまくおさまるので、中には亭主の子でない子もむろんいたろうが、戸籍ではちゃんとなっていて「父《てて》なし児」などは作らない。
「戸籍係の方でも心得ていて、あんばい生まれ月を|いじく《ヽヽヽ》ってくれよる」
戸籍なんちゅうもんは、人間に便利なように作るもんやという。そうして、娘に夜這いをかけてくるものは、やっぱり未婚の青年に限り、既婚者の男もないではなかったろうけれど、独り者の青年が、あとしまつをすることに、うまくなっていたそうである。
人間のチエというものは、こういう所にこそ使うものだ、とつくづく思い知らされた。
また、戸籍というものは、人間に奉仕するもので、人間が戸籍のためにふりまわされるのは邪道だと思わされた。
そういえば、この頃のように、赤ん坊がぞくぞくとコインロッカーに捨てられていたり、映画館やデパートの便所の屑籠に、紙袋に入れて捨てられているのは、ヨバイのルールに違反していることである。ヨバイの邪道である。
いま、日本中にヨバイの嵐が吹きあれていて、老いたるも若きももろともに、ヨバイにいそしんでいる観がある。しかし、ヨバイには長い年月、人々がその体験と生活のチエから練り上げた「ヨバイ法」ともいうべきルールがある。そのルールが、もう、今はめちゃめちゃなのである。ルールが乱れれば、真にヨバイをたのしむことはできぬ。今の日本人は、ヨバイを真にたのしむほどの文化程度にさえ達しとらんのである。
たとえばいま係争中の「未婚の実母」と「養母」の子供奪い合い事件は、実母がこの五月五日に、実力で子供をつれ去ったことで、あらたな局面が展開して、ますます解決が困難になったが、これも、ヨバイのルールからはずれていることである。
大阪府・堺市に起った事件で、これは女の闘争にまで発展しそうな勢いをみせている。すでにご存じの方も多いだろうが、幼稚園の未婚の先生が、園児の父と親密な仲になって子供ができた。男はこのとき、おろしてくれと頼んだが、女は、育てる自信があるからと押し切って生んだそうである。
さて、ここから両者の話は完全にくいちがう。男は、女の同意を得て、ニセの母子手帳を作成し、子のない夫婦に養子にやったという。女は同意したおぼえはない、という。
できた子供を抱いて男の親類の家へ相談にいったところ、隣室に寝かされていた子供はいつのまにか連れ去られていた。必死でさがしてやっと、養子先をつき止めた。その家では可愛がって育てているので返さぬという。女は子供を返せと裁判にもちこんだ。そして敗訴した。この判決文が問題である。
裁判官という人種が、いかにあたまの古い、西も東も分らぬ人種、つまり男と女、母と子、ということについていかに洞察力や理解力がないかということがわかる。その上、非常な悪文であってわざわざ引用するほどのことはないのだが、山村のヨバイルールにくらべ、現代はあまりにも文化程度が低俗であることが瞭然とするから、敢て掲げる。
「幼稚園の教諭の身で園児の父と情交関係を結び(大きにお世話だ。幼稚園の先生がわるくって妻子ある身の男ならわるくないのかね)生まれる子にとって所謂《いわゆる》私生児という不幸な境遇になることが予想されるのに(裁判官自身がそんなこといっていいの? 裁判官は私生児をいじめる人を弾劾する立場じゃないの?)請求者本人——実母のことである——尋問の結果によっても、その養育に確たる見込、方針もないままに被拘束者を生んだ態度等から請求者の被拘束者——子供のこと——に対する真の愛情の存在については疑問なしとせず。(養育に確たる見込み、方針もないまま生むというが、生むということ自体、現代では一つの選択である。少なくとも彼女の場合、未婚の身で生むことを選んだと主張している。それをさして、愛情がないとどうしてきめつけられるか)」
ヨバイは「呼ばい」であるからには、相呼応して阿《あうん》の呼吸があるはず、意気投合する、ここまではよい。子供ができる、これは誰か身軽な男を拾っておっつけるか、せっかく自分で育てるというのなら、女に育てさせればいいではないか。
一方的に女を非難し、男はのほほんとしているのでは片手落ちも甚だしい。私は元・ヨバイの大家の爺さんに、
「もしどの男も、ワシャ知らんといったらどうしますか」
と聞いたら、爺さんきっぱりと、
「そういう男は、この村はじまって何百年、一人も居らなんだ」
というた。
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