「ラインの河辺」という本のことでいい落したから付記しておく。私はこの本の内容はあげつらったけれども、作者の犬養道子氏が、きびしい日本批判をされることに反対するものではない。「わがものと思えば軽し笠の雪」、という気はたしかにあって、日本人なら誰しも日本を悪くいわれると、いい気はしないが、しかし「いう人間がいる」「いわせる社会である」ということは、めでたいことである。犬養氏は更に手きびしい日本批判を重ね、日本人を啓蒙、挑発されるがよい。もしそれについて、偏狭なる民族主義者らが妨害せんとするか、不肖、私は一命に代えても犬養氏と、その著書の出版社を守り、支援する決心である。——何もそう、気張っていうことはないのだが、一旦緩急あると、つい声がうわずってしまうのは、戦中派ニンゲンの悲しき性《さが》である。
とはいえ、文章というものは、人間の性格が出ますなあ。
手きびしいことを書いても、ふんわりと残り香が漂ってくるようなのもあるんですがね。
それはともかく、このところ私は推理小説に心を奪われ、原稿がおくれているのに、読み出すとおもしろくてやめられなかったりする、そうなると、人に話したくなるのは人情である。
「この小説は、はじめから犯人が割れていまして……」
とカモカのおっちゃんに話して聞かすと、
「ハハァ、犯人は女ですな」
「イイエ、ちがいます。どうしてですか?」
「いや、割れとる、いうたやないか」
私は舌打ちする。こんなおっちゃんに合の手を入れられては、話が進まない。
それにしても、推理小説はうまく考えられてあると、心から感心する。ともかく、毎度アイデアがいるのだ。それは普通の小説も同じであるが、小説によっては、中途はんぱで切って、あとは読者の想像に任すということがある。しかし推理小説は、犯人が出てこなければいけないのだ。しかも、わるいヤツがわるいことをして怪人二十面相のごとくマントをうちひろげ、カンラカンラと笑いながら競技館のドームから天空たかく逃げてしまったりしてはこまる。
やっぱり名探偵か、名刑事に、のがれぬ証拠をつきつけられ、いいひらきのすべもなく追いつめられ、ガクッと首うなだれる、或いはやにわに、隠しもったピストルで自分のあたまを射って罪のつぐないをする、というふうでないと、道徳倫理的観念からも許しがたい。私はマカロニウエスタンが大きらいな女である。むやみやたらと人を殺す奴が、のうのうと生きのびて酒壜をラッパ飲みしているなんてのは、あまりいい気持がしない。だから、推理小説も犯人はかならず、あがらねばならぬ。そこがむつかしい。
とても、私のような粗雑なあたまでは、殺人の仕組み、アリバイ作りのアイデアなど考えられもしない。推理作家のあたまの中はどういう緻密な構造になっているのだろうと感心する。
ふつうの小説の原稿料に、プラス「アイデア料」が要るのではあるまいか。もらってもしかるべきである。私は陳舜臣氏にそう進言したが、さすが紳士の陳さんはにこにこされただけで、
「そら、もらうべきや」
とはいわれなかった。しかし、
「そんなん要らん」
とも、いわれなかった。
推理作家に女流が少ないということはよくいわれるが、女性は推理能力に於て、男性に劣るからであろうか。
私も書いてみたいが、もし書くとすれば、愛情に関する推理である。女は金もうけも仕事の欲も、ないではないがあまり強くなく、その代り、いったん、コト愛憎をめぐっての感情のもつれになると、すさまじくなる。
そうなると平気で殺人し、それを糊塗するために工作しようとし、綿密周到な計画をめぐらすかもしれない。女性が犯人の場合、たいてい愛情問題が原因である。夫の浮気を推理する時のすさまじいカンの冴えなど、じつに推理小説に打ってつけではないか。私は、もし推理小説を書くとすれば、浮気発見推理でいくつもりである。
カモカのおっちゃんは笑い、
「そういうけど、女というもんはえてして、自分のカンがはずれとる、とは思いまへんなあ——全然、見当ちがいのことを、かたく信じこんで、男がいいわけしても聞かばこそ、いったん思いこむと、もう誰が何というても変えへん。これもこまります」
しかしこういうのもあるのだ。
私の知人の女性(これは私と同年である)、何の気なしに夫の手帖をのぞいていたら、名前の書いてない電話番号が一つだけあったそうだ。
何の予備知識も先入観もないのに、ドキン! ときたそうである。
その局番から推して、だいたいの土地勘を働かせ、あれかこれか考えているうち、ふと夫が修理と称して、その方面へしばしば出かけることを思い出した。夫は電気器具商である。そこで二つの点がピッタリ結びついたそう。
電話してみたら女の声で「もしもし」といった。若い女らしい。
「○○がいってます?」
と夫の名をいうと、ギョッとした感じで一瞬、間があったそう、あわてふためいて、
「ちがいます」
といって切ったが、ふつうのまちがい電話の感じではなかった、といっていた。
これも、カモカのおっちゃんにいわせると、タダのマチガイ電話で、女性が一瞬つまったのは、饅頭か餅菓子をちょうど食べていてのどへつめたにちがいないという、そんな、ええかげんなカンや推理では、とてものことに小説など仕立てられないというのである。ではどういう方向の題材だと、女流の手に負う範囲の推理小説がかけるであろうか。この際よんどころない、私は辞を低くして聞いたのである。カモカのおっちゃんにいわせると、それは女体自身であるそうな。これは前人未到の分野で、推理の余地が一杯ある。
「たとえば?」
「たとえば、——かねての疑問ですが——女性の体は、強姦の時にもおつゆが出るかどうか、などというナゾですなあ。女体はナゾにみちていますからなあ。何ぼでも推理小説のタネはありまっしゃないか」