長寿部落の長寿のヒケツは、むろん、自然がすこやかに清潔なまま、人間のまわりにあって、汚されてない、そのことが、何といっても一ばん大きい。
空気の清澄。
海の美しさ。
客が来たというので、村人は魚を釣り、潜って貝を取ってきてくれる。
鶏をつぶして煮てくれる。
その鶏も庭を走り廻って、あまりものの飯粒や野菜屑で大きくなったヤツ、その身ときたら肥ってコリコリして、煮汁に脂がギラギラ浮く、天然の美味のトリである。
木に成ったバナナをもいでくれる。
これはアイスクリームの極上のような味、パイナップルを叩き落して割ってくれる。甘くて手も唇もベトベトする、自然の甘味。
こんなものを摂っていれば、短命であろうと思っても、不本意に長生きしてしまう。
ところが、地上最後の楽園のような奄美諸島が、いま汚されようとしているのだ。
吹けば飛ぶような九十戸の小村《しようそん》も、いまはその話でもちきりで、人々は不安にかられていた。
島の中部の宇検村《うけんそん》、枝手久《してく》島に、東亜燃料が、石油精製基地を作ろうとしているからである。日産五十万バーレルというのは、世界最大級だそうだ。
近辺の町や村の青年たちは、むろん、あげて反対しているが、同じ青年でも、名瀬の青年会議所が、まだ沈黙しているので、村の若者たちは、こまっていた。
私の滞在した部落は、宇検村に隣接する瀬戸内町に入っているのだが、町の政治家もこういうときには黙して語らず、ヤイノヤイノと反対しているのは、あいかわらず、庶民層ばかりなのである。
奄美の自然を一度見た人なら、これに内地の二の舞をさせて、海を油だらけにし、魚を油くさくさせ、ゼンソク患者をふやし、空を灰色にしたいとは、決して思うまい。
企業側はどこでも、企業と地元の共存共栄をうたうが、そんなものは冷静に考えてありはしないので、企業のエゴと地元の利益はするどく対立する体質のものである。
しかも、海や空というのは、全人類の、というより地球上の生物の共有財産だから、汚してしまったらとり返しつかない。
それでなくてさえ、その村の先端の、風光明媚で有名な海岸に、もうはや、不吉な、コールタールが打ち上げられてあったりするのだ。沖を通るタンカーのせい。
その浜は、ふつうの浜ではなく、太平洋の怒濤が岬や崖にぶつかり、その余波ではげしく渚を打つので、石という石はすべて、美しい球形か、楕円である。だから、玉石海岸と呼ばれているくらいなのだ。丸い石が敷きつめられ、白い砂浜の向うに、手を入れれば染まりそうな濃い紺青《こんじよう》の海、青々と繁るアダンの林、そういう浜に、べっとりと黒いコールタールが付着しているのを見ると、情けないとも何とも、さすがの情け知らずのおせいさんの眼にも、思わず涙が出ようというものである。
どうしてこんなことになってしまったのだ。いまにバチが当っても、しーらないよ、しらないよ。
その海岸は、村の人たちの広場のようなもので、遊山《ゆさん》には、ごちそうをたずさえて、焼酎をのんで歌い踊り、お祭りにもまた、飲み食いして歌い、踊って、先祖の魂《たま》まつりをするところである。
そうして、そういう折の折箱、紙などのゴミは、「波がきれいにしてくれる」と村人はいう。
海は、母牛が仔牛をなめるように、きれいに渚をなめていってくれるのだ。しかしコールタールは、どうにもならない。
海はためいきをつき、力及ばぬことを悲しみつつ、涙のように、黒い固まりを渚に置いてゆく。黒い涙が点々と散って、何千年もかかって波が磨いていった、まんまるな美しい石を汚すのである。そしてもはや、人々は、そこに腰をおろし輪になって、歌い踊ることはできないのである。
宇検村に石油基地がもしできたら、美しい奄美の空と海はもう二度と戻らないだろう。
鹿児島県当局が、それについて確固とした識見をもっていないのでは、どうしようもない。地元次第、などといっている段階ではないのだ。素朴な村の人にだけ、その責任をおわせていたのではもう、手おくれになってしまう。
「奄美も奄美ですが……」
と、カモカのおっちゃんは、私の演説を途中で遮り、
「どうも、困るのは、つい近くにもあります」
「そうなんです。奄美は遠くと思ってもらっては困ります、近くの問題なんです」
と夢中で力説する私に、おっちゃんは遠慮しいしい、また口を出し、
「あの、阪神高速を車で神戸へ入りますな」
「ハイ」
「夜だと、片側は海、片側は山、六甲山にかけて灯がいちめんにばらまかれて、きれいでムードの出るところ」
「まあ、ね」
「ちょうど大阪からはいりますと、神戸ぐらいまでに話がついて、どないや、そうねえ、などという時分です」
何の話かわからないが。
「ひょいとタクシーの窓から見ると、山手に灯がキラキラ、神戸って、すてきねえ、と女の子がうっとり、そうなるとしめたもんです」
おっちゃん相手に、うっとりとなる女が、この世にいるのかねえ。
「神戸の夜はよろしいよ、などといいながら、手ェなんか、握ったりします」
「ちょっと待って下さい、私、いま、厳粛に、公害を論じてるんです。まぜ返さないで下さい」
「いや、そこだんがな。話のスピードといい、ムードといい、ちょうど盛り上ったところで、神戸のトバ口にさしかかる、すると得もいえぬヘンな匂い、得もいえぬいい香りというのはあるが、これは胸のむかつく煙の匂い、神戸製鋼なんていうかの有名な悪臭発生源が、高速道路のそばにありましてな。何もかもオジャン、女の子は夢からさめた如く、我に返ったりする。公害の被害もピンからキリまでです。僕はあの会社に文句いいたい。今まで何人、失敗したかわかれへん」