このエッセイは、はじめ三カ月くらいで終るつもりで書き出したのだが、かりそめの筆のすさびが、いつのまにか二年もつづいてしまい、自分でもおどろいている。
この種のものは、女性では書きむずかしいジャンルであるので、私も、実をいうと書きはじめからそれなりに抱負があった。
風流エッセイから「さわやかさ」と「おかしみ」を失ったら、それはイキのわるい魚と同じである。
それから、楽しんで書くこともたいせつだ。
抱負の成果のほどは読者のご高評にまつほかないものの、二年ものあいだ、楽しんで書きつづけられたのは、読者と「週刊文春」編集部のおかげで、お礼を申し上げたい。
この本を、けしからん猥雑な本で、良風美俗に反する故、家庭の中へ持ち込めないと思われる人は、どうも「話せない人」である。
同様に、この本の書き手の私を、物凄いあばずれで色好みの金棒引きで、男を男とも思わず、ところかまわず猥談にうち興じるおそろしいオバハンだと思われる人も、「わからずや」である。
私はごくふつうの、恥ずかしがりで人見知りして引っこみ思案の「女の子」にすぎない。
誰の前でも、ここに書いてあるようなことをしゃべっているわけではない。
お酒を飲んだときとか、カモカのおっちゃんと会ってるときとか、つまり、心をゆるしてるときだけである。
だから、これは、ごくふつうの|女の子《ヽヽヽ》が(女はいくつになっても、女の子という要素がある)考えたり、疑問をもったり、しゃべったりしていることで、ことさら特異なものではない。
カモカのおっちゃんも、特定の男ではなくどこにでもいる男で、それは、お読み下さったあなた自身かもしれない。文中の「私」が「女の子」であるように、おっちゃんも「男の子」である。
されば、「ボクたち男の子」と「キミたち女の子」の、これは、お酒を汲みかわしつつ交す、たのしーい、おしゃべりである。
男の子と女の子の会話だから、一部の人の忌避するような「いやらしい」オハナシなんてないはずだと、確信するものだ。
拙文を軽妙なさしえで飾って二年間、読者と私を楽しませて下さった奈良葉二先生にお礼を申上げたい。「長風呂」はさしえで保っていると巷間の評判であった。
また原稿のおそい私は、係りの、松藤みち嬢をしばしばてこずらせて申訳なかった。お詫びとお礼を申上げたい。なお、正続二冊の「女の長風呂」を作って頂いた出版部の箱根裕泰氏に、あつくお礼申上げます。