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花の百名山01

时间: 2020-06-26    进入日语论坛
核心提示:高尾山  フクジュソウ(キンポウゲ科) 山々には出あいがあった。いつの山にも、どこの山にも。しかし、小学校五年の秋の遠足
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高尾山  フクジュソウ(キンポウゲ科)
 
 山々には出あいがあった。いつの山にも、どこの山にも。しかし、小学校五年の秋の遠足に、はじめて武州高尾山の頂きに立って、すぐ眼の前にそそり立つ富士山を見仰いだときほど、大きなよろこびにひたされたことはない。
(おとうさん)
私は小学校一年の夏に死んだ父の面影を、紫紺の山肌の上に描いて、胸に父を呼び、|滂沱《ぼうだ》として溢れる涙を拭いもやらず、ススキの茂みの中に立ちつくした。
生まれた家は、日本橋から八キロの、中仙道の宿駅の町にあり、富士は武蔵野の林の果てに、遠く小さく見えた。父は亡くなる前の一日、私と、町外れの小川のほとりを歩いて、自分が以前に登った富士を指さして言った。
——お前もいまに登りなさい。
新らしく事業を起しかけたままで世を去った父のあとは、巨額の借金の返済に追われ、大きな家を他人に貸して小さな家に移り、子供ごころに冷たい世間の風を知って、父さえ生きていてくれたらばと、口惜しかったり悲しかったりしたことは数えきれなかった。
父は富士山にいて、私が高尾山の頂きまで来て、父にあうのを待っていた。
(おとうさんは山にいる)
その思いを胸において、私は山を歩きつづけていった。
武州高尾山は、秩父山地の西端が、相模川の谷にむかって、幾うねりかの山なみを重ねてなだれ落ちるその一つの頂きをつくっている。標高は六百メートル。歩いて登れば二時間である。
いまはもう、東京都の公園のようになっていて、バスで麓にゆき、麓からケーブルで、頂き近い薬王院のあるところについて、大人も子供も、上野の山よりは少し高い位にしか思わないかもしれないけれど、たった二時間、ゆっくり登って三時間の道のりは、是非歩いてほしいところだ。
薬王院は聖武天皇の天平年間の創建と言われ、その周辺の巨大な杉並木がすばらしい。
山路にさしかかって、春ならばエイザンスミレやセンボンヤリの薄紫の花を、夏ならばヤブレガサやヤマジノホトトギスの白い花を、秋はリュウノウギクの白、ツルリンドウの青などをたのしむことができ、歩くひとが少いので、私の娘時代も、それから何十年たっての今日このごろも、わざわざ道をひろげたところ以外は、それほど山の花々が減ったようには見えないけれど、戦後すぐの頃登ったときのように、ヤマシャクヤクやオキナグサやエビネを見出すことは、ほとんど不可能になった。かつてはクマガイソウもコアツモリソウも、山かげの杉木立ちのかげに咲いていたと聞いている。
山の花々を里に移して、花が仕合わせになる道理はない。悪い空気。薬くさい水道の水。土のちがい。移し植えられた山の花々にとって、里に下されることは、早い死への旅立ちを意味する。
一ころ植物の会の仲間に入って、一いろ一茎に限って、千メートル以下の山地の花々を採取した時期があったが、一年たち二年たちして、花も小さく葉も小さくなってゆくホタルブクロやフシグロセンノウを見ると、無抵抗の弱者を、自分のたのしみのために、幽閉し虐待している悪代官のような気持ちになって来て、この十数年来すっかりやめてしまった。植物学者でもなく、花になぐさめられ、花に安らぎの思いを与えられて感謝しなければならない身は、こちらから山にでかけて、花にあわなければならぬと思いこむようになった。
高尾山には戦前も戦後ももう何回となく登った。高尾山の頂きからは、大山、丹沢山塊をこえて富士山。つづいて御坂山塊、大菩薩嶺、甲武信、雲取などの山々が見える。北に目を放てば赤城山、日光連山、筑波山、更に東方はるかに晩秋のよく晴れた日には、房総の山々をまで望み見たことがある。
西の谷を下って小仏峠に至り、景信山から陣馬山の尾根道を縦走したことも、西南に大垂水峠を下って、南高尾の丘の連なりを歩き、眼下に津久井湖を見ながら、峰の薬師に出たことも、小仏峠を北に下って、南浅川の谷を抜けたこともある。
父が四十歳になったばかりのいのちを、結核にむしばまれて死ななければならなかったのは、富士登山で無理をしたからだと、母が繰りごとのように語っていた。
富士登山の前にはしばしば高尾山に登ったという。明治の末期に、中央線はすでに飯田町・名古屋間に通じていた。二十代三十代の父は、小学生の私が、大正の末期に、浅川駅で下りて、甲州街道を西に、田圃や空地の続く道を、山麓まで歩いたのと同じように歩いたにちがいない。
しかし父は頂きを極めて、どちらの道を下ったのであろう。
高尾山は小田原北条氏の信仰が篤く、八王子に北条氏照が城を構えたときは、広大な寺領を得ている。徳川時代も参詣者がさかんであったというから、甲州街道に登山者の姿もよく見られたであろうけれど、鉄道開通後は、下山してふたたび浅川駅にもどるのが一番の近みちであったから、大垂水や小仏への道も、南浅川への道も荒れ果ててしまったのではないだろうか。
子供の頃、私の家の庭に、父が高尾山で採って来たというフクジュソウの数株があった。
町中にしては広い屋敷で、庭には築山があり、泉水がつくられ、築山の石組みの下には、フクジュソウが、いち早く毎年の春を知らせた。
フクジュソウは正月の新年を|寿《ことほ》ぐ盆栽としてつくられるものとのみ思っていたので、父が高尾山から持って来たというのは、母の思いちがいではないかと思いこんでいた。
あれは、いつの春であったろうか。私が女ばかりの山の会をつくってからの高尾山ゆきだから、ほんの十年前である。山歩きに馴れないひとびとのために、高尾山を登って、南浅川に下る道をえらんだ。
三月も末で、風も柔かく、陽射しもあたたかくなったが、山はまだ冬が去ったばかりで、木々の下草は、去年の秋のままに枯れすがれていた。
小仏峠で、早く帰りたいひとは相模湖に、ゆっくりできるひとは南浅川への谷を下ることに決めると、主婦の多い集まりなので、ほとんどが西側の短い距離を下ってゆき、私をふくめてほんの四、五人が北側の道をとった。
椎や樫や杉などの常緑樹の多い谷は、木々の芽ぶきも見られず、一そう春のくるのがおそいようで、わずかにカンアオイの緑の冴え冴えとしているのが春の気配を感じさせた。
ところどころにキブシの花も、固い蕾なりに春らしい粧いをこらしている。私はいつかひとびとよりおくれて山道を歩いていった。高尾山などと一口に軽く見て、あまりにも低く、あまりにも開けているのを非難するひとが多いけれど、この春のさかりを前にした谷の美しさはどうか。
木々は皆、飛翔する前の若い鳥のように、息をひそめて張りつめた力を凝縮させている。この山気にふれ得ただけでも、今日の山歩きはよかった。
全身から湧きたつよろこびに、小走りに走り下りようとして、はっと息をつめた。一瞬にして金いろのものが足許を走り去るように思った。
フクジュソウが咲いていた。杉の根元の、小笹の中に一本だけ、たしかに野生の形の、売られているのよりは背も高く、黄も鮮やかな花を一つつけていた。その後石灰岩地帯を好むフクジュ ソウは、かつて多摩川の所々にもよく咲いていたことを知った。私の見つけたのは、残存の一株であったのだろう。
何故、高尾山に、こうもしばしばくりかえしてやって来たのだろうか。
フクジュソウはたしかに高尾山に咲いていると父が教えてくれるために、おのずから私の足が向くように誘ってくれたのではないだろうか。
父は四十歳で死んだが、生きていたら、もっとたくさんの山に登ったことであろう。
父の願いが、私をこのように山に駆りたてるのかもしれない。父がもっと生きてもっと見たかった山の花々を、私は父の眼で見るために、こんなにも山にあこがれつづけているのかもしれないと、そのとき思った。父は栽培種の花よりも野の花、山の花が好きであったという。
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