返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 作品合集 » 正文

花の百名山02

时间: 2020-06-26    进入日语论坛
核心提示:大楠山  フユノハナワラビ(シダ・ハナワラビ科)登る山をえらぶとき、高さよりは、その山が人間の生活とどうかかわりがあった
(单词翻译:双击或拖选)
大楠山  フユノハナワラビ(シダ・ハナワラビ科)

登る山をえらぶとき、高さよりは、その山が人間の生活とどうかかわりがあったかが、いつも気になる。私は古戦場とよばれるような山を歩くのが好きである。敗残の生命をかつがつに保って、落城の兵の逃げていった道などは、殊に心惹かれる。
三浦半島の南端にあって、二四二メートル、半島で一番高いとされる大楠山は、平安末期に三浦氏の居城であった衣笠山に隣接している。
桓武天皇の曾孫|高望《たかもち》王は平姓を名乗って、その子孫たちは坂東平氏の祖となった。平将門もその一人である。その乱に見られるように、一族内での争いが激しく、将門の討伐に加わった平忠頼の子孫は、秩父氏、畠山氏、千葉氏、鎌倉氏、三浦氏等にわかれた。頼朝が挙兵したとき、三浦義明は援兵を送り、畠山重忠は同じ坂東平氏の河越氏、江戸氏と共に、三千の兵をもって衣笠城を攻撃した。
大楠山にゆくには、京浜急行の按針塚からまっすぐに登る道があるけれど、私は早春の一日、国電の衣笠駅で下車し、町のうしろの衣笠公園を抜けた。桜の名所として知られるこの低い丘陵の公園には、桜の古木にまじっていろいろの椿の品種が新らしく植えこまれていた。
丘を下りると、急に山里の風景になり、前に衣笠城を仰いで、一筋の水のきれいな小川が流れ、昔ながらの木の橋がかかっていて、ふと、何百年も前の姿そのままの気がした。
神武寺のある鷹取山や大楠山は、三浦半島の|脊梁《せきりよう》をつくり、衣笠山もその山なみのつづきになっているけれど、鎌倉と同じように入り組んで複雑な谷のある地形が、いかにも城を構えるのに|適《ふさ》わしく見える。道もうねりながら細々と山かげから山かげを連ねていて、日だまりにはオオイヌノフグリの空いろの大きな花がいっぱいであった。
頼朝が伊豆で源氏再興の兵を挙げたのは、八月の半ばである。相模の山野は山百合が多いので、その|馥郁《ふくいく》たる香りの中を、ナデシコやオミナエシやキキョウを踏みしだいて、兵たちは進んだのであろう。
関東は清和天皇の孫の経基にはじまる清和源氏が、将門の乱で活躍して以来、多くの武士をかかえて武門の頭領となった土地である。もともとは平氏であった秩父、畠山、千葉氏なども、源頼義の前九年の役にしたがっている。相模は頼義が国守としておさめたところであり、その子孫の義朝の頃には、東海の十五カ国の荘園に勢威を張っていた。
三浦義明の頼朝への援軍は、折からの酒匂川の増水で足止めされているうちに、石橋山の敗報がとどいてしまった。もどって鎌倉までくると、畠山重忠の軍勢に迎撃され、小坪でその囲みを突破して衣笠城にたてこもった時は、五百に満たぬ数であった。義明は子供の義澄を、安房へ逃れた頼朝に合流させ、自分は城を守って切腹した。鎌倉の杉本寺は、義明の子の義宗の城のあとである。街道に臨んだ要害の地で、父祖の地、衣笠防衛の拠点であったろう。
衣笠城址の碑は、本丸の跡と言われる一番高い丘のほとりにたてられ、東を望めば、椎やタブなどの常緑樹の多い木立ちの向うに、薄青く房総半島が浮んで見える。城の北面の傾斜地には、近くの農家で栽培している鉄砲水仙が、梅林の中に花盛りであった。
大楠山もかつては衣笠山を護る砦の一つであったと思う。城址から二時間足らずで、その頂きに立つと、観音崎から剣崎までの海岸線を間近に、房総や伊豆の山々が一望に眺められ、大島が南の方角に近々と横たわっている。
雑木林の中の道を、秋谷に近い前田橋に下る。両側が深くえぐれて、姿をかくしやすい。
林にはヤマザクラが多く、自動車の通れない狭い石ころ道の両側には、キチジョウソウやフユノハナワラビがいっぱいある。軽井沢のカラ松林の中で、よくナツノハナワラビを見つけることがあるけれど、私は葉にぼってりとした厚みのあるフユノハナワラビの方が好きだ。
三浦氏は頼朝が勝利を得て幕府をひらくと、重く用いられた。一門一族の中には、鎌倉から衣笠までの敗軍のあとをしのんでこの道を歩き、無残に死んだ父や兄を思って涙したものもあったであろう。
縁起のよい名のキチジョウソウに三浦一族の行末を祈り、去年の落葉の中に、青々としているフユノハナワラビの強靭さにはげまされもしたのではないだろうか。三浦氏もやがて北条氏のために亡ぼされて、その栄えのあとを語るのは、これらの野の草たちだけとなった。
轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%