暦の上の立春を境にして、煤煙に汚された東京の空も、青のいろに柔かさを増し、頬に冷たい風の中にも、どこかの庭でほころびはじめた早咲きの梅の香りが流れてくるようになると、私の心は、武蔵野の西の果てに連なる、奥多摩の谷々に向かって、ひたすらに走りとんでゆく。
——カタクリはもうどのくらい芽を出したかしら。
——あの崖のカタクリは今年も花が咲くかしら。
もののふの|八十娘《やそをとめ》等が汲み|乱《まが》ふ
寺井の上の|堅香子《かたかご》の花
万葉集の巻の十九にある大伴家持の歌は、越中守であったときにつくられている。宇都宮貞子さんの『草木おぼえ書』によれば、妙高高原ではカタクリをカタツユとよぶそうである。天平勝宝二年三月二日にカタカゴの花を折ろうとして、家持は越中の春に咲いたカタクリを見て、ふるさとの大和を思い出したのではないだろうか。
葛城の尾根を歩いた四月の末に、道のかたわらの雑木林の下草に、点々とカタクリの咲いているのを見たことがある。
家持の歌の中の寺は越中の寺であろうか。私は奈良の都のどこかの寺のように思われてならない。乙女らの素足のいろを思わせるカタクリの薄紅は、大和の壮麗な寺院を背景にしてこそひきたつような気がする。
私がはじめてカタクリの花を見たのは、残念ながら奥多摩の山ではなくて、教師をしていた芝の白金三光町の聖心女子学院の教員室であった。
アララギ派のすぐれた歌人で、書道の大家である岡麓氏が、習字科担任の先生として在籍され、ある日、信濃路のひとからおくられて来たというカタクリの花ばかりを、茶筒に入れたのを見せて下さった。
これが万葉集のカタカゴの花と教えられ、古代の姿を野の草に残す、信濃路の山々の谷の深さをしのんだのだが、若い日というものは、周囲に対して、馬車馬のように注意のゆきとどかなかったものだと、今ごろになって恥ずかしい。
カタクリは戦後になって、清瀬の森の中や村山の貯水池のほとりや、多摩川の羽村の近くや、五日市の秋川の丘陵でいくらでも見た。高尾山の南や北の麓でも見た。私の娘の頃であったら、春の武蔵野や奥多摩の山々を歩けば、ずい分たくさん見られたであろうのに、記憶の中に一つもない。
ただ早く歩くばかりが能だったのである。北海道の大千軒岳でも、東北の早池峰でも、上州大峰山でも、御坂山塊でも、初夏にまだ咲き残っているカタクリを見た。もしも澱粉をカタクリだけにたよっていたら、あるいは万葉の昔から今日に至る千何百年の月日に、日本列島から絶滅してしまったかもしれない。ジャガイモが普及し、その多量な澱粉採取の可能によって、いまもなお日本のカタクリが、野山をいろどっていてくれるのであろう。
ユリに似て美しい花は、栽培種のように華麗だけれど、その根をとるのはまことに手間がかかる。花盗人も花だけ摘んで、根を残すから、これもカタクリの仕合わせになっているのかもしれない。
わが家の庭にも、はじめて地元のひとの案内で秋川の谷を歩いたとき、持参の|鍬《くわ》でとってくれた三、四本があるけれど、二十年このかた、一度も花の咲いたことがない。それにこりて、その後、どんなにカタクリを見ても、とって来ようと思ったことがない。
四月半ばの|御前《ごぜん》山を訪れたのはつい最近である。
南秋川の谷から、数馬や風張峠を経て、月夜見山の山腹をまいて、奥多摩湖畔に出る道路が出来たということはずい分前から聞いていた。
五日市から入る秋川の谷は、|神戸《かのと》岩や|小坂志沢《こざかしざわ》や|浅間《せんげん》尾根や|刈寄《かりよせ》山など、南も北も戦前からよく歩いていて、多摩川の谷よりももっとひなびて閑静な風情が好きであった。
国立音大の先生であった甲野勇氏の遺著、『東京の秘境』は東京都であっても、御蔵島についで人口密度のうすいのが秋川周辺の檜原村だとしている。そこには縄文石器時代から、|土師《はじ》・須恵器の出土する弥生時代に及ぶ遺跡や、上古の祭りの形を残す神社もある。六百年も前からこの谷の奥に住みついたという中村氏の子孫もいて、「カブト造り」の建築を残している。言うなれば、秋川の谷には日本の歴史が、化石のように時代の変遷のあとを見せて山々の緑にまもられているのである。
山草の好きな私にとって、更にこの谷が好ましいのは、石灰岩地が多いために植物の種類が多く、レンゲショウマやヤマシャクヤク、ヤマブキソウやクマガイソウやカザグルマなどにもわりに容易にお目にかかれることである。
本宿から大岳と御前山との鞍部めがけての歩きでも、ホタルカズラや、ヤマブキソウやキンラン、ギンランを見つけた。いつもそこから大岳に出るか、氷川に下りるかしていたのだが、有料道路を使って、小河内峠も間近いところで下りると、御前山までは二時間の登りであった。
さすがにその南面の谷にはクマがいると言われるほどの山の深さで、一面のブナの大樹に被われていたが、期待していなかっただけにびっくりしたり、よろこんだりしたのは、まだ芽ぶきも固い林間の地表をびっしりと埋め、薄紅に咲きさかるカタクリであった。
カタクリは神戸岩からの鞍部にむかって下りる道にもいっぱいあり、有料道路開通を嘆くひともいるけれど、山々はそれ以上に深く大きく、これだけのカタクリの大群落に、何千年昔からの面影が生きつづけているのだとうれしかった。
——カタクリはもうどのくらい芽を出したかしら。
——あの崖のカタクリは今年も花が咲くかしら。
もののふの|八十娘《やそをとめ》等が汲み|乱《まが》ふ
寺井の上の|堅香子《かたかご》の花
万葉集の巻の十九にある大伴家持の歌は、越中守であったときにつくられている。宇都宮貞子さんの『草木おぼえ書』によれば、妙高高原ではカタクリをカタツユとよぶそうである。天平勝宝二年三月二日にカタカゴの花を折ろうとして、家持は越中の春に咲いたカタクリを見て、ふるさとの大和を思い出したのではないだろうか。
葛城の尾根を歩いた四月の末に、道のかたわらの雑木林の下草に、点々とカタクリの咲いているのを見たことがある。
家持の歌の中の寺は越中の寺であろうか。私は奈良の都のどこかの寺のように思われてならない。乙女らの素足のいろを思わせるカタクリの薄紅は、大和の壮麗な寺院を背景にしてこそひきたつような気がする。
私がはじめてカタクリの花を見たのは、残念ながら奥多摩の山ではなくて、教師をしていた芝の白金三光町の聖心女子学院の教員室であった。
アララギ派のすぐれた歌人で、書道の大家である岡麓氏が、習字科担任の先生として在籍され、ある日、信濃路のひとからおくられて来たというカタクリの花ばかりを、茶筒に入れたのを見せて下さった。
これが万葉集のカタカゴの花と教えられ、古代の姿を野の草に残す、信濃路の山々の谷の深さをしのんだのだが、若い日というものは、周囲に対して、馬車馬のように注意のゆきとどかなかったものだと、今ごろになって恥ずかしい。
カタクリは戦後になって、清瀬の森の中や村山の貯水池のほとりや、多摩川の羽村の近くや、五日市の秋川の丘陵でいくらでも見た。高尾山の南や北の麓でも見た。私の娘の頃であったら、春の武蔵野や奥多摩の山々を歩けば、ずい分たくさん見られたであろうのに、記憶の中に一つもない。
ただ早く歩くばかりが能だったのである。北海道の大千軒岳でも、東北の早池峰でも、上州大峰山でも、御坂山塊でも、初夏にまだ咲き残っているカタクリを見た。もしも澱粉をカタクリだけにたよっていたら、あるいは万葉の昔から今日に至る千何百年の月日に、日本列島から絶滅してしまったかもしれない。ジャガイモが普及し、その多量な澱粉採取の可能によって、いまもなお日本のカタクリが、野山をいろどっていてくれるのであろう。
ユリに似て美しい花は、栽培種のように華麗だけれど、その根をとるのはまことに手間がかかる。花盗人も花だけ摘んで、根を残すから、これもカタクリの仕合わせになっているのかもしれない。
わが家の庭にも、はじめて地元のひとの案内で秋川の谷を歩いたとき、持参の|鍬《くわ》でとってくれた三、四本があるけれど、二十年このかた、一度も花の咲いたことがない。それにこりて、その後、どんなにカタクリを見ても、とって来ようと思ったことがない。
四月半ばの|御前《ごぜん》山を訪れたのはつい最近である。
南秋川の谷から、数馬や風張峠を経て、月夜見山の山腹をまいて、奥多摩湖畔に出る道路が出来たということはずい分前から聞いていた。
五日市から入る秋川の谷は、|神戸《かのと》岩や|小坂志沢《こざかしざわ》や|浅間《せんげん》尾根や|刈寄《かりよせ》山など、南も北も戦前からよく歩いていて、多摩川の谷よりももっとひなびて閑静な風情が好きであった。
国立音大の先生であった甲野勇氏の遺著、『東京の秘境』は東京都であっても、御蔵島についで人口密度のうすいのが秋川周辺の檜原村だとしている。そこには縄文石器時代から、|土師《はじ》・須恵器の出土する弥生時代に及ぶ遺跡や、上古の祭りの形を残す神社もある。六百年も前からこの谷の奥に住みついたという中村氏の子孫もいて、「カブト造り」の建築を残している。言うなれば、秋川の谷には日本の歴史が、化石のように時代の変遷のあとを見せて山々の緑にまもられているのである。
山草の好きな私にとって、更にこの谷が好ましいのは、石灰岩地が多いために植物の種類が多く、レンゲショウマやヤマシャクヤク、ヤマブキソウやクマガイソウやカザグルマなどにもわりに容易にお目にかかれることである。
本宿から大岳と御前山との鞍部めがけての歩きでも、ホタルカズラや、ヤマブキソウやキンラン、ギンランを見つけた。いつもそこから大岳に出るか、氷川に下りるかしていたのだが、有料道路を使って、小河内峠も間近いところで下りると、御前山までは二時間の登りであった。
さすがにその南面の谷にはクマがいると言われるほどの山の深さで、一面のブナの大樹に被われていたが、期待していなかっただけにびっくりしたり、よろこんだりしたのは、まだ芽ぶきも固い林間の地表をびっしりと埋め、薄紅に咲きさかるカタクリであった。
カタクリは神戸岩からの鞍部にむかって下りる道にもいっぱいあり、有料道路開通を嘆くひともいるけれど、山々はそれ以上に深く大きく、これだけのカタクリの大群落に、何千年昔からの面影が生きつづけているのだとうれしかった。