関東に生まれ育つと、天城もまた、気になる山である。晴れた日には西の空に、相模の大山から丹沢、富士、箱根と連なって見える山なみの、西の果ては天城となって、ゆるやかな起伏が海に沈む。
西を仰ぐのは、夕焼けの時間と重なることが多いから、東京の町々が暮れて、黄昏の灯をともしはじめても、箱根から天城の山々は朱赤の幕を張ったような空に、黒々とした山容をくっきりと浮べている。私にとって伊豆の山は、箱根や丹沢よりもなつかしかった。
六歳のときに肺結核で死んだ父が、療養で伊東に滞在していたとき、まだ二十幾つの母が、修善寺から人力車で山越えして見舞ったという。車夫が気の毒で、途中から三歳の弟をおぶって歩いた。伊東峠というところだったと母は言い、その気力と体力を子供ごころにえらいと思いつづけていた。
いつかその峠を、自分も伊東まで歩いて見たいと思った。
つけ捨てし野火の煙りの赤々と
見えゆく頃ぞ山はかなしき
和歌の師、尾上柴舟氏が、伊豆の山を眺められての歌とうかがった。野火の野は曾我兄弟が育ったという小田原よりの野であったろうか。伊豆の山々には、山容だけでなく、その山中に生まれた人間の悲劇によって、私たちを惹きつけるものがある。
関東武士たちの心意気を伝える『曾我物語』も、子供の時からくりかえしくりかえし読み、また、聞かされた世界で、十郎や五郎や、その父の舞台は伊豆から富士にかけての山や野である。箱根火山、熱海火山の地質を調べる二十代の旅の終りの宿は、修善寺温泉であった。
平家を西の海にしずめ、範頼、義経などの肉親を殺してから、わずか三十年の間に、頼朝の子供たちは次々に横死して源家の嫡流の血は絶える。岡本綺堂氏の名作『修禅寺物語』はすでに私の娘時代に上演されていて、悲運の頼家をしのびながら山あいの温泉町を歩いた。
戦後に川端康成氏の『伊豆の踊子』を亡き川頭義郎監督が映画化するときの脚本を担当して、修善寺から湯ヶ島を通り、天城峠を越えて、下田まで走った。河津浜で車を下り、相模湾に臨む砂浜を素足で歩き、十郎や五郎も、この浜でこのようにして貝を拾い、カニを追ったのであろうと、父の復讐を果して殺された若いいのちが哀れであった。
二度目は自分たちの山仲間で、残雪の天城トンネルの上から歩いて八丁池まで。湯ヶ野に泊り、翌日は雨の中を河津川が釜滝から大滝まで七つの滝となって流れ下るのを、逆に登っていって眺めた。リョウメンシダにまじってハチジョウシダ、ナチシダなどがいっぱいあり、山に雪があっても、伊豆の谷は暖国なのだと思った。トンネルを上って左手の道をしばらくゆくと、右手の笹藪の中に、天城山心中と書きたてられた清朝の子孫、|愛新覚羅《あいしんかくら》家の娘|生《えいせい》と、青森の青年大久保武道の自殺したあとがある。サルスベリに似た樹肌のヒメシャラの大木が密生する林の中の北斜面で、雪にぬれた落葉がびっしりと地表を埋めている。こんな寒々しい場所で、男は女を射ち、次に自分を射ったのだが、どんな理由があるにせよ、女を殺し得るような粗暴な男に魅入られた生嬢が|不憫《ふびん》であり、武道青年の独占欲が憎々しいものに思えた。ワビスケにも似たヒメシャラの花は白く小さく、薄幸の美女の霊をなぐさめるにふさわしいと言おうか。
三度目は初冬の一日、伊東に一泊し、翌日、遠笠山の有料道路を走って天城高原ゴルフ場で車を捨て、右折して万二郎岳の山中にわけいっていった。一時間の歩きで頂上に着いたが、途中はすべて、アセビ、ヒメシャラ、ベニウツギ、ミニバツツジの古木の密林である。ときにさしかわす枝々の下をくぐり、ときに苔むした巨石から巨石にとび、植林の杉や檜もなくてすべて自然のままなのは、長く御料林として手を加えられなかったからだという。今度はこれらの木々の花の盛りに来たい。山仲間同士口々に言いながら、又、一時間ほどして万三郎の頂上にたった。
眼の下に、天城火山のすそとなる谷々が海にむかって急な勾配をつくっている。大島が近々と見え、三原山が白い噴煙を浮べている。
中央火口丘である白田山まで二時間近く歩いて大休止、ただただヒメシャラの樹幹の太さ、ツツジの枝ぶりのよさに見とれた。ツツジはアマギツツジとよばれ、牧野富太郎氏の命名で、天城特産のよし。もう春の芽のきざしているのを見仰ぎ見仰ぎして天城峠まで十五キロ、八時間を歩いた。
西を仰ぐのは、夕焼けの時間と重なることが多いから、東京の町々が暮れて、黄昏の灯をともしはじめても、箱根から天城の山々は朱赤の幕を張ったような空に、黒々とした山容をくっきりと浮べている。私にとって伊豆の山は、箱根や丹沢よりもなつかしかった。
六歳のときに肺結核で死んだ父が、療養で伊東に滞在していたとき、まだ二十幾つの母が、修善寺から人力車で山越えして見舞ったという。車夫が気の毒で、途中から三歳の弟をおぶって歩いた。伊東峠というところだったと母は言い、その気力と体力を子供ごころにえらいと思いつづけていた。
いつかその峠を、自分も伊東まで歩いて見たいと思った。
つけ捨てし野火の煙りの赤々と
見えゆく頃ぞ山はかなしき
和歌の師、尾上柴舟氏が、伊豆の山を眺められての歌とうかがった。野火の野は曾我兄弟が育ったという小田原よりの野であったろうか。伊豆の山々には、山容だけでなく、その山中に生まれた人間の悲劇によって、私たちを惹きつけるものがある。
関東武士たちの心意気を伝える『曾我物語』も、子供の時からくりかえしくりかえし読み、また、聞かされた世界で、十郎や五郎や、その父の舞台は伊豆から富士にかけての山や野である。箱根火山、熱海火山の地質を調べる二十代の旅の終りの宿は、修善寺温泉であった。
平家を西の海にしずめ、範頼、義経などの肉親を殺してから、わずか三十年の間に、頼朝の子供たちは次々に横死して源家の嫡流の血は絶える。岡本綺堂氏の名作『修禅寺物語』はすでに私の娘時代に上演されていて、悲運の頼家をしのびながら山あいの温泉町を歩いた。
戦後に川端康成氏の『伊豆の踊子』を亡き川頭義郎監督が映画化するときの脚本を担当して、修善寺から湯ヶ島を通り、天城峠を越えて、下田まで走った。河津浜で車を下り、相模湾に臨む砂浜を素足で歩き、十郎や五郎も、この浜でこのようにして貝を拾い、カニを追ったのであろうと、父の復讐を果して殺された若いいのちが哀れであった。
二度目は自分たちの山仲間で、残雪の天城トンネルの上から歩いて八丁池まで。湯ヶ野に泊り、翌日は雨の中を河津川が釜滝から大滝まで七つの滝となって流れ下るのを、逆に登っていって眺めた。リョウメンシダにまじってハチジョウシダ、ナチシダなどがいっぱいあり、山に雪があっても、伊豆の谷は暖国なのだと思った。トンネルを上って左手の道をしばらくゆくと、右手の笹藪の中に、天城山心中と書きたてられた清朝の子孫、|愛新覚羅《あいしんかくら》家の娘|生《えいせい》と、青森の青年大久保武道の自殺したあとがある。サルスベリに似た樹肌のヒメシャラの大木が密生する林の中の北斜面で、雪にぬれた落葉がびっしりと地表を埋めている。こんな寒々しい場所で、男は女を射ち、次に自分を射ったのだが、どんな理由があるにせよ、女を殺し得るような粗暴な男に魅入られた生嬢が|不憫《ふびん》であり、武道青年の独占欲が憎々しいものに思えた。ワビスケにも似たヒメシャラの花は白く小さく、薄幸の美女の霊をなぐさめるにふさわしいと言おうか。
三度目は初冬の一日、伊東に一泊し、翌日、遠笠山の有料道路を走って天城高原ゴルフ場で車を捨て、右折して万二郎岳の山中にわけいっていった。一時間の歩きで頂上に着いたが、途中はすべて、アセビ、ヒメシャラ、ベニウツギ、ミニバツツジの古木の密林である。ときにさしかわす枝々の下をくぐり、ときに苔むした巨石から巨石にとび、植林の杉や檜もなくてすべて自然のままなのは、長く御料林として手を加えられなかったからだという。今度はこれらの木々の花の盛りに来たい。山仲間同士口々に言いながら、又、一時間ほどして万三郎の頂上にたった。
眼の下に、天城火山のすそとなる谷々が海にむかって急な勾配をつくっている。大島が近々と見え、三原山が白い噴煙を浮べている。
中央火口丘である白田山まで二時間近く歩いて大休止、ただただヒメシャラの樹幹の太さ、ツツジの枝ぶりのよさに見とれた。ツツジはアマギツツジとよばれ、牧野富太郎氏の命名で、天城特産のよし。もう春の芽のきざしているのを見仰ぎ見仰ぎして天城峠まで十五キロ、八時間を歩いた。