伊豆の天城にエビネがあると誘われて、河津の奥の|三筋《みすじ》山に入ったのは、万二郎、万三郎を歩いてしばらくたってからである。
案内して下さる船木大さんは、戦後にボルネオの原始林を開墾していたかたで、南伊豆の太陽と水と石と山の中に、ボルネオ時代をしのばせる大自然を相手にしての生活を築こうとされ、ただ一人、河津川の支流、佐賀野入の渓谷のワサビづくりにはげんでいる。同行は伊東の聖母幼稚園のシスター根本さん。銀鼠いろの修道服の裾をからげて、軽々と山道を登る。
船木さんは、マムシをこわがる私に、絶好な食糧が落ちていると思えばいい。マムシなど、棒切れ一本あれば大丈夫と勇ましかった。
大きな火山岩がごろごろしている開墾地の谷を横切り、三筋山にとりつく。八一九メートル。天城火山には幾つかの寄生火山があるが、谷をへだてた|鉢《はち》山と同じく、これもその一つであろう。
急傾斜の山腹は杉の植林に被われているが、伐採のあとが、明るくひらけていて、|杣《そま》びとが踏みならした狭い道を、ひたすらに頂きをめざす。日だまりにセンブリが紫っぽい白い花を咲かせている。
もう花も終ったエビネが、道ばたに数本あった。
エビネは富士の火山灰がいっぱい降りつもった神奈川県の丘陵でずい分見つけたけれど、今は宅地の造成で全滅に瀕していると聞いた。火山灰地である天城の山中にも、かつてはたくさんあったのだろう。
ふかふかとして山靴が埋まってしまうような杉林の落葉の道を歩きながら、幾度か|猪 《いのしし》の足あとを見る。それも人声におどろいて、つい今しがた逃げ去ったものらしいと言う。二メートル位の間隔で跳んでいる。登るにつれて、林は杉から檜に変って猪の足あとがふえ、あたりにケモノの匂いがたちこめているような気がした。
下田出身の土屋寛氏の新著『天城路慕情』の中には、伊豆半島は南からひらけ、オオヤマツミノミコトの子孫のアタ族が主流であったが、のちに、コトシロヌシノミコト系のカモ族に追われて山奥に入ったと書かれている。南伊豆には、山の神祭という子供たちの行事があり、子供たちだけで山詣りをし、食べものをわかちあう習慣があったとも書かれている。いつとなく代表だけが早朝の山詣りをし、あとのものは徒歩競争、|角力《すもう》、旗取競争などをし、さらに一人を泥棒になぞらえ、皆で海や山や川を舞台に、追いかけ追いかけして捕えたという。
これらの行事は、先住民族と次の民族との土地のうばいあい、あるいは、敗れたものの|魂鎮《たましず》めのための祭りを意味しているようでおもしろいと思う。
葛城にも、京都にも古い民族がカモの名でよばれていた。二上山や葛城の麓あたりで、竹内峠を越えれば、海に臨む河内平野である。京は鴨川のあたり。そのような地名は千葉県の鴨川も併せて全国に残っているけれど、もう一つ南伊豆には、オオヤマツミの妻であったアワヒメが、コトシロヌシのものにされたという伝承がある。土地だけでなく、女までうばわれたということであろうが、伊豆のアワヒメのアワとカモの名の組み合せに興味があった。|安房《あわ》の鴨川。四国の徳島県は|阿波《あわ》の国。ここにも鴨島、加茂谷、三加茂などの地名があり、川沿いに散らばっている。コトシロヌシはカモのオオミカミとよばれるアジスキタカヒコネノミコトと同じく、オオクニヌシノミコトの子孫である。日本の古代に、オオヤマツミノミコト系と、オオクニヌシノミコト系の民の勢力が、女を媒体として交替していったところが多いことを示すのであろうか。
この日、私は、一匹のマムシにもあわず、三筋山の山中を数時間歩きつづけて、エビネは遂にはじめの数本きり見なかったが、植林の切りひらかれたところに、白く群がってホソバコガクが、盛り上った海の波の泡だちのように咲きさかっているみごとさにおどろかされた。河津へくるまでの車窓からムラサキのガクアジサイが、いろも鮮やかに群生しているのが見えたが、この花は火山性の酸性土壌を好むという。アジサイはその土壌がアルカリ性であるか酸性であるかによって、そのいろが変るという。同じ仲間のホソバコガクの純白な花の下の土はどんな種類なのであろう。いつか四国の石鎚山でもたくさん見た。シャクナゲ、ツツジ、ヒメシャラに並んで、天城の南の谷々を、淡々と美しいホソバコガクが埋めている。葉よりも花が盛り上っているので、遠くからは時ならぬ春の雪が、降り積もっているように見える。
三筋山の頂きは、南面にゴルフ場を見下す一面のカヤトである。まだ六月というのに、身の|丈《たけ》を被うほどの夏草の茂みで、北に当っては、万二郎、万三郎が|屏風《びようぶ》のようにそびえたっている。それらの尾根道にはツツジやアセビの古木が茂り、北に狩野川がきざむ谷も、南に河津川がえぐりひらく谷も、急崖を連ねて滝がいっぱいある。三筋山や鉢山のあたりは、まことに自然の要害にまもられた落人たちの桃源郷であったのであろう。
近くの新山峠は、北伊豆から南伊豆のかつての古道であったと言われ、土屋氏は、天目山の戦いで敗れ、駿河から伊豆に入った武田の武将の子孫とのことであった。
案内して下さる船木大さんは、戦後にボルネオの原始林を開墾していたかたで、南伊豆の太陽と水と石と山の中に、ボルネオ時代をしのばせる大自然を相手にしての生活を築こうとされ、ただ一人、河津川の支流、佐賀野入の渓谷のワサビづくりにはげんでいる。同行は伊東の聖母幼稚園のシスター根本さん。銀鼠いろの修道服の裾をからげて、軽々と山道を登る。
船木さんは、マムシをこわがる私に、絶好な食糧が落ちていると思えばいい。マムシなど、棒切れ一本あれば大丈夫と勇ましかった。
大きな火山岩がごろごろしている開墾地の谷を横切り、三筋山にとりつく。八一九メートル。天城火山には幾つかの寄生火山があるが、谷をへだてた|鉢《はち》山と同じく、これもその一つであろう。
急傾斜の山腹は杉の植林に被われているが、伐採のあとが、明るくひらけていて、|杣《そま》びとが踏みならした狭い道を、ひたすらに頂きをめざす。日だまりにセンブリが紫っぽい白い花を咲かせている。
もう花も終ったエビネが、道ばたに数本あった。
エビネは富士の火山灰がいっぱい降りつもった神奈川県の丘陵でずい分見つけたけれど、今は宅地の造成で全滅に瀕していると聞いた。火山灰地である天城の山中にも、かつてはたくさんあったのだろう。
ふかふかとして山靴が埋まってしまうような杉林の落葉の道を歩きながら、幾度か|猪 《いのしし》の足あとを見る。それも人声におどろいて、つい今しがた逃げ去ったものらしいと言う。二メートル位の間隔で跳んでいる。登るにつれて、林は杉から檜に変って猪の足あとがふえ、あたりにケモノの匂いがたちこめているような気がした。
下田出身の土屋寛氏の新著『天城路慕情』の中には、伊豆半島は南からひらけ、オオヤマツミノミコトの子孫のアタ族が主流であったが、のちに、コトシロヌシノミコト系のカモ族に追われて山奥に入ったと書かれている。南伊豆には、山の神祭という子供たちの行事があり、子供たちだけで山詣りをし、食べものをわかちあう習慣があったとも書かれている。いつとなく代表だけが早朝の山詣りをし、あとのものは徒歩競争、|角力《すもう》、旗取競争などをし、さらに一人を泥棒になぞらえ、皆で海や山や川を舞台に、追いかけ追いかけして捕えたという。
これらの行事は、先住民族と次の民族との土地のうばいあい、あるいは、敗れたものの|魂鎮《たましず》めのための祭りを意味しているようでおもしろいと思う。
葛城にも、京都にも古い民族がカモの名でよばれていた。二上山や葛城の麓あたりで、竹内峠を越えれば、海に臨む河内平野である。京は鴨川のあたり。そのような地名は千葉県の鴨川も併せて全国に残っているけれど、もう一つ南伊豆には、オオヤマツミの妻であったアワヒメが、コトシロヌシのものにされたという伝承がある。土地だけでなく、女までうばわれたということであろうが、伊豆のアワヒメのアワとカモの名の組み合せに興味があった。|安房《あわ》の鴨川。四国の徳島県は|阿波《あわ》の国。ここにも鴨島、加茂谷、三加茂などの地名があり、川沿いに散らばっている。コトシロヌシはカモのオオミカミとよばれるアジスキタカヒコネノミコトと同じく、オオクニヌシノミコトの子孫である。日本の古代に、オオヤマツミノミコト系と、オオクニヌシノミコト系の民の勢力が、女を媒体として交替していったところが多いことを示すのであろうか。
この日、私は、一匹のマムシにもあわず、三筋山の山中を数時間歩きつづけて、エビネは遂にはじめの数本きり見なかったが、植林の切りひらかれたところに、白く群がってホソバコガクが、盛り上った海の波の泡だちのように咲きさかっているみごとさにおどろかされた。河津へくるまでの車窓からムラサキのガクアジサイが、いろも鮮やかに群生しているのが見えたが、この花は火山性の酸性土壌を好むという。アジサイはその土壌がアルカリ性であるか酸性であるかによって、そのいろが変るという。同じ仲間のホソバコガクの純白な花の下の土はどんな種類なのであろう。いつか四国の石鎚山でもたくさん見た。シャクナゲ、ツツジ、ヒメシャラに並んで、天城の南の谷々を、淡々と美しいホソバコガクが埋めている。葉よりも花が盛り上っているので、遠くからは時ならぬ春の雪が、降り積もっているように見える。
三筋山の頂きは、南面にゴルフ場を見下す一面のカヤトである。まだ六月というのに、身の|丈《たけ》を被うほどの夏草の茂みで、北に当っては、万二郎、万三郎が|屏風《びようぶ》のようにそびえたっている。それらの尾根道にはツツジやアセビの古木が茂り、北に狩野川がきざむ谷も、南に河津川がえぐりひらく谷も、急崖を連ねて滝がいっぱいある。三筋山や鉢山のあたりは、まことに自然の要害にまもられた落人たちの桃源郷であったのであろう。
近くの新山峠は、北伊豆から南伊豆のかつての古道であったと言われ、土屋氏は、天目山の戦いで敗れ、駿河から伊豆に入った武田の武将の子孫とのことであった。