相模の|大山《おおやま》の|阿夫利《あふり》神社は、オオヤマツミノミコトを祭神としている。天城の南に古くから住みついたひとたちと同系の民が、海に近いこの山麓にもひろがっていたのであろうか。
大山は一二四六メートル。相模野の上に、富士山にも似た円錐の形にそびえて、その裾に花水川、相模川の流域をしたがえている。
神奈川県の古墳時代の遺跡の分布図を見たことがある。南の相模湾に面したあたりでは、大山をかこんで弧形をつくって、前方後円墳や円墳、横穴墳が並んでいた。
|大秦野《おおはたの》などの地名があるから、水のゆたかな南面の傾斜地には、大陸からの民が住んで、早くから機業を起したと思われるけれど、もっとずっと以前から、この形のよい山を神霊のとどまるところとして、その加護を願い、その恵みにあずかろうとして、朝夕に山容を仰ぎつつ祈った原始のひとびとが山麓に集まったのであろう。
私の大山詣りは、野の花を訪ねるために始まった。戦後間もない頃の春である。
馬場から入って、|日向《ひなた》薬師から沢沿いに歩く。大沢温泉までの道の両側の雑木林の中には、キンラン、ギンランが目についた。ホタルカズラの鮮やかな|瑠璃《るり》いろの花にもはじめて出あい、ヤマユリやホトトギスがやたらと多く、エゾムラサキに似た、オオルリソウの花が道ばたにたくさんあるのを見て、大山は奥多摩よりずっと花がゆたかだと思った。奥多摩のように植林が進んでいないせいであろうか。
大沢の渓流のそばにはシュウメイギクの群落があった。
二度目はやはり春で、伊勢原から大山川に沿って上子易から西の、浅間山に向う林道を歩き、杉林の中でクマガイソウの群落に、これもはじめて出あった。
三度目はヤビツ峠から登って大山の頂きを目指し、|雷峰《らいのみね》尾根を日向薬師まで歩いた。
頂上にはミヤマカタバミの清楚な白い花の群落が美しかったが、阿夫利神社の社殿の近くまで、ごみの山が盛り上っていて、太古の民の信仰がすでに失われたのか、ちょうど掃除の前に訪れたのかなどと思った。いつも山を汚すごみの放置を見る度に、これが山を愛してやってくるひとたちの所業かと憤ったり悲しんだりする。
頂上から日向薬師までは長い下りで、いささかバテたが、見晴台を見過ごして間もない杉の林の中に、ふと暗い紫いろのかたまりを見つけ、走りよって見ると、図鑑でのみ知っていたウラシマソウであった。
テンナンショウに似て、花の|苞《ほう》の一端が細く長く伸び、直立し、大きく弧を描いて下降する。まあ、なんて不思議な花なのでしょう。ひとり言を言いながら、ひざまずいてつくづくと眺めいってしまった。ウラシマソウと名づけられたのは、その細く長い苞が、浦島太郎の釣り糸に似ているからであるという。いたずらな子供に見つかったらたちまちもぎとられそうで心配だ。しかもこの根は有毒である。子供たちよ、御用心!
どんなにごみの山があっても、山腹にこの花がまだ残っているなら、大山の原始の自然は、したたかにここに息づいていると思えてうれしかった。
四度目はつい最近の早春の一日である。中野区のいずみ学級の生徒諸君三十五人と一緒に、ヤビツ峠から大山頂上を目指した。今回はシーズンオフのせいなのか、掃除されたあとなのか、ごみもほとんどないのを見て、表参道の石段の道を六百メートル下り、下社で御神楽を奉納した。古式床しい大和舞である。雪どけの|泥濘《でいねい》で、山靴でないひとたちは苦労したが、全員揃って新築の木の香も真新らしい本殿にすわり、テープで流される古代の音楽に耳を傾ける。六時間近く歩いて疲れているであろうのに、おのずからひきしまった表情で、私語一つささやかず、神妙に三十分間を正座しつづける若ものたちに感心した。
かつて知恵おくれとよばれたこの学級の若ものたちとは、もうこれで五回目の山行きだが、その都度教えられ、感心させられることが多く、何をもって知恵おくれと言うのかと怒りさえ感じることがある。泥濘の道を互いに助けあいいたわりあうやさしさ。注意事項をまもる素直さ。高尾旅館での食事休憩に、ビールは飲まないと答えたものが三分の二もある。家を出るときに親から言われて来たのであろう。卓の前にかしこまってあぐらもかかず、ジュースを飲む若ものたちの姿に、私はふと涙ぐんでしまった。三十五人の無事を願って、途中は植物を見るどころではなく、帰宅すると血圧が二百三十もあったが、それでも私は、いってよかったと思った。
阿夫利神社は雨降神社とも書き、農民が雨乞いに登った山でもあるという。江戸時代は殊に|大山詣《おおやまもう》でが盛んで、今なお当時の講中の組織が残り、高尾旅館のように|御師《おし》の経営する宿が多い。
雨降りを願うときでなくても、とにかく大山にゆく。頂きから相模の海を、駿河の富士山を望み仰ぐ。それだけでも窮屈な封建体制下に生きる庶民にとっての仕合わせだったのだろうと思った。石段を下りる途中で、登頂八百回ときざんだ石碑を見た。その文字はおどるように勢いがよかった。
大山は一二四六メートル。相模野の上に、富士山にも似た円錐の形にそびえて、その裾に花水川、相模川の流域をしたがえている。
神奈川県の古墳時代の遺跡の分布図を見たことがある。南の相模湾に面したあたりでは、大山をかこんで弧形をつくって、前方後円墳や円墳、横穴墳が並んでいた。
|大秦野《おおはたの》などの地名があるから、水のゆたかな南面の傾斜地には、大陸からの民が住んで、早くから機業を起したと思われるけれど、もっとずっと以前から、この形のよい山を神霊のとどまるところとして、その加護を願い、その恵みにあずかろうとして、朝夕に山容を仰ぎつつ祈った原始のひとびとが山麓に集まったのであろう。
私の大山詣りは、野の花を訪ねるために始まった。戦後間もない頃の春である。
馬場から入って、|日向《ひなた》薬師から沢沿いに歩く。大沢温泉までの道の両側の雑木林の中には、キンラン、ギンランが目についた。ホタルカズラの鮮やかな|瑠璃《るり》いろの花にもはじめて出あい、ヤマユリやホトトギスがやたらと多く、エゾムラサキに似た、オオルリソウの花が道ばたにたくさんあるのを見て、大山は奥多摩よりずっと花がゆたかだと思った。奥多摩のように植林が進んでいないせいであろうか。
大沢の渓流のそばにはシュウメイギクの群落があった。
二度目はやはり春で、伊勢原から大山川に沿って上子易から西の、浅間山に向う林道を歩き、杉林の中でクマガイソウの群落に、これもはじめて出あった。
三度目はヤビツ峠から登って大山の頂きを目指し、|雷峰《らいのみね》尾根を日向薬師まで歩いた。
頂上にはミヤマカタバミの清楚な白い花の群落が美しかったが、阿夫利神社の社殿の近くまで、ごみの山が盛り上っていて、太古の民の信仰がすでに失われたのか、ちょうど掃除の前に訪れたのかなどと思った。いつも山を汚すごみの放置を見る度に、これが山を愛してやってくるひとたちの所業かと憤ったり悲しんだりする。
頂上から日向薬師までは長い下りで、いささかバテたが、見晴台を見過ごして間もない杉の林の中に、ふと暗い紫いろのかたまりを見つけ、走りよって見ると、図鑑でのみ知っていたウラシマソウであった。
テンナンショウに似て、花の|苞《ほう》の一端が細く長く伸び、直立し、大きく弧を描いて下降する。まあ、なんて不思議な花なのでしょう。ひとり言を言いながら、ひざまずいてつくづくと眺めいってしまった。ウラシマソウと名づけられたのは、その細く長い苞が、浦島太郎の釣り糸に似ているからであるという。いたずらな子供に見つかったらたちまちもぎとられそうで心配だ。しかもこの根は有毒である。子供たちよ、御用心!
どんなにごみの山があっても、山腹にこの花がまだ残っているなら、大山の原始の自然は、したたかにここに息づいていると思えてうれしかった。
四度目はつい最近の早春の一日である。中野区のいずみ学級の生徒諸君三十五人と一緒に、ヤビツ峠から大山頂上を目指した。今回はシーズンオフのせいなのか、掃除されたあとなのか、ごみもほとんどないのを見て、表参道の石段の道を六百メートル下り、下社で御神楽を奉納した。古式床しい大和舞である。雪どけの|泥濘《でいねい》で、山靴でないひとたちは苦労したが、全員揃って新築の木の香も真新らしい本殿にすわり、テープで流される古代の音楽に耳を傾ける。六時間近く歩いて疲れているであろうのに、おのずからひきしまった表情で、私語一つささやかず、神妙に三十分間を正座しつづける若ものたちに感心した。
かつて知恵おくれとよばれたこの学級の若ものたちとは、もうこれで五回目の山行きだが、その都度教えられ、感心させられることが多く、何をもって知恵おくれと言うのかと怒りさえ感じることがある。泥濘の道を互いに助けあいいたわりあうやさしさ。注意事項をまもる素直さ。高尾旅館での食事休憩に、ビールは飲まないと答えたものが三分の二もある。家を出るときに親から言われて来たのであろう。卓の前にかしこまってあぐらもかかず、ジュースを飲む若ものたちの姿に、私はふと涙ぐんでしまった。三十五人の無事を願って、途中は植物を見るどころではなく、帰宅すると血圧が二百三十もあったが、それでも私は、いってよかったと思った。
阿夫利神社は雨降神社とも書き、農民が雨乞いに登った山でもあるという。江戸時代は殊に|大山詣《おおやまもう》でが盛んで、今なお当時の講中の組織が残り、高尾旅館のように|御師《おし》の経営する宿が多い。
雨降りを願うときでなくても、とにかく大山にゆく。頂きから相模の海を、駿河の富士山を望み仰ぐ。それだけでも窮屈な封建体制下に生きる庶民にとっての仕合わせだったのだろうと思った。石段を下りる途中で、登頂八百回ときざんだ石碑を見た。その文字はおどるように勢いがよかった。