私の五十歳前後からの山歩きは、娘の頃につかった地図を、もう一度つかおうとしたことからはじまった。紙質も今のよりは薄い、五万分の一の白地図である。赤鉛筆で歩いた道を、紺のインクで、時間が記入されている。
育児と家事に追われて、新聞もろくろく読めなかった一頃、地図箱を開けて、それらの一枚を取り出し、何の時間の拘束もなく、山野を歩きまわることができた娘時代を思い返すと、不覚の涙が、地図の上にしたたり落ちるのであった。
——あの自由な日々はどこへいったか。
老いさらばえて、歩行困難の時を迎えても、箱根の山の|いざり《ヽヽヽ》勝五郎のように、箱に車輪をつけたものをつくってもらい、ひとを頼んで山につれて行ってもらおう。ひとがいなければ四つん這いに這ってでもと思ったりした。
娘の頃から四十何年とたって、早春の晴れた日、|川苔《かわのり》山に足を踏みいれた時、全身をひたすよろこびで、やはり涙がしたたり落ちた。奥多摩の山々の中で、心に一番強く残る山歩きだったと記憶し、ひとに頼らず、自分の足でまた訪れることができたのだから。
学校を卒業して四月から教師の職に就く三月の終りの日、まだ学生の弟と、その友人二人の四人で大正橋から入り、大丹波川に沿った道を、獅子口小屋まで歩いていった。真新らしいワサビ漬けで|丼 《どんぶり》一ぱいの御飯を食べ、踊平の急坂を登って頂上に至り、百尋の滝に下りて川苔谷をバスのあるところまで、全行程二十キロ近くを、八時間かかっている。
足のおそくなったこの頃は、一日に十時間歩くことも珍らしくないが、まだその頃は高水三山や戸倉三山の刈寄山、大岳周辺などで、せいぜい五、六時間の山歩きをしていたから、川苔山は一番時間がかかって、しかも絶えず弟から、おそい、おそいとおこられつづけた。しかし、百尋の滝にむかう道には、三、四十センチの新らしい雪が積もり、これもはじめての雪中行軍でころんだり、すべったりして気息えんえんの思いであった。
四十数年目の川苔山も、大正橋から大丹波川に沿って入ったが、今度は七キロほど、大丹波林道をバスのゆかれるところまで、崖ぎりぎりに走らせて時をかせいだ。谷沿いの道は四十数年前の記憶よりはるかに明るい。まだ若い檜の植林で、以前は陽の光もとぼしい林間の道であった。このあたりの木は何年目位に伐採されるのであろう。昭和の七、八年頃の大木は勿論伐られ、そのあとに植えられたのも伐られたのではないだろうか。それとも戦時中は人手がなくて、伐採のあともしばらくは植林されず、戦後しばらくして植えられたのが、今見られる木々なのであろうか。ひとそれぞれが、あの大きな戦争によってそれぞれの生き方の変革を求められたように、山腹を被う植林の姿にも、人間の生き方が投影しているのであろう。
林が明るくなって、谷の道は花がいっぱいである。
日も時もほとんど同じなのに、以前は足許の花などを見入るひまもなくて、ただ夢中で歩き通したように思う。それに今のようには、花の名も知らなかった。谷が深まると、常緑の植林よりは、芽ぶいた落葉樹が多くなり、アブラチャンが黄の細かい花をつけている。マンサクも咲いている。
去年の落葉が敷き積もった木々のかげには、点々とアズマイチゲが清楚な花を見せている。花びらの裏側の薄紫なのが美しい。南にむいた斜面には、ユリワサビやハナネコノメソウやボタンネコノメが咲いている。びっしりと咲いている。雪がとけて間もない地表はしっとりとうるおい、春が足早やにやって来た感じである。ジロボウエンゴサクの繊細な薄紫の花も見える。キケマンも花盛りで、川苔谷で思い出すのは、ワサビ田の緑ばっかりであったが、こんなにも華麗な花々にあえるとは思わなかった。どの花も繊細で華奢で、長い冬を耐えに耐えて、ようやく花を咲かせ得たという感じである。
獅子口小屋はずっと立派になっていて、小屋主のひとは戦前からここにいたという。長い道を辿りついて、たきたての御飯とワサビ漬けだけの食事がおいしかったと言えば、自分がつくったのだという。すると、このひとは二十代の若い日から、この山にこもっていたのかとおどろかされた。ワサビ田つくりが本職なのかもしれないが。踊平から頂上を往復して赤杭尾根を下る。|古里《こり》までの歩きは十六キロ。七時間半かかった。昔の行程を歩けば十時間かかったことであろう。
育児と家事に追われて、新聞もろくろく読めなかった一頃、地図箱を開けて、それらの一枚を取り出し、何の時間の拘束もなく、山野を歩きまわることができた娘時代を思い返すと、不覚の涙が、地図の上にしたたり落ちるのであった。
——あの自由な日々はどこへいったか。
老いさらばえて、歩行困難の時を迎えても、箱根の山の|いざり《ヽヽヽ》勝五郎のように、箱に車輪をつけたものをつくってもらい、ひとを頼んで山につれて行ってもらおう。ひとがいなければ四つん這いに這ってでもと思ったりした。
娘の頃から四十何年とたって、早春の晴れた日、|川苔《かわのり》山に足を踏みいれた時、全身をひたすよろこびで、やはり涙がしたたり落ちた。奥多摩の山々の中で、心に一番強く残る山歩きだったと記憶し、ひとに頼らず、自分の足でまた訪れることができたのだから。
学校を卒業して四月から教師の職に就く三月の終りの日、まだ学生の弟と、その友人二人の四人で大正橋から入り、大丹波川に沿った道を、獅子口小屋まで歩いていった。真新らしいワサビ漬けで|丼 《どんぶり》一ぱいの御飯を食べ、踊平の急坂を登って頂上に至り、百尋の滝に下りて川苔谷をバスのあるところまで、全行程二十キロ近くを、八時間かかっている。
足のおそくなったこの頃は、一日に十時間歩くことも珍らしくないが、まだその頃は高水三山や戸倉三山の刈寄山、大岳周辺などで、せいぜい五、六時間の山歩きをしていたから、川苔山は一番時間がかかって、しかも絶えず弟から、おそい、おそいとおこられつづけた。しかし、百尋の滝にむかう道には、三、四十センチの新らしい雪が積もり、これもはじめての雪中行軍でころんだり、すべったりして気息えんえんの思いであった。
四十数年目の川苔山も、大正橋から大丹波川に沿って入ったが、今度は七キロほど、大丹波林道をバスのゆかれるところまで、崖ぎりぎりに走らせて時をかせいだ。谷沿いの道は四十数年前の記憶よりはるかに明るい。まだ若い檜の植林で、以前は陽の光もとぼしい林間の道であった。このあたりの木は何年目位に伐採されるのであろう。昭和の七、八年頃の大木は勿論伐られ、そのあとに植えられたのも伐られたのではないだろうか。それとも戦時中は人手がなくて、伐採のあともしばらくは植林されず、戦後しばらくして植えられたのが、今見られる木々なのであろうか。ひとそれぞれが、あの大きな戦争によってそれぞれの生き方の変革を求められたように、山腹を被う植林の姿にも、人間の生き方が投影しているのであろう。
林が明るくなって、谷の道は花がいっぱいである。
日も時もほとんど同じなのに、以前は足許の花などを見入るひまもなくて、ただ夢中で歩き通したように思う。それに今のようには、花の名も知らなかった。谷が深まると、常緑の植林よりは、芽ぶいた落葉樹が多くなり、アブラチャンが黄の細かい花をつけている。マンサクも咲いている。
去年の落葉が敷き積もった木々のかげには、点々とアズマイチゲが清楚な花を見せている。花びらの裏側の薄紫なのが美しい。南にむいた斜面には、ユリワサビやハナネコノメソウやボタンネコノメが咲いている。びっしりと咲いている。雪がとけて間もない地表はしっとりとうるおい、春が足早やにやって来た感じである。ジロボウエンゴサクの繊細な薄紫の花も見える。キケマンも花盛りで、川苔谷で思い出すのは、ワサビ田の緑ばっかりであったが、こんなにも華麗な花々にあえるとは思わなかった。どの花も繊細で華奢で、長い冬を耐えに耐えて、ようやく花を咲かせ得たという感じである。
獅子口小屋はずっと立派になっていて、小屋主のひとは戦前からここにいたという。長い道を辿りついて、たきたての御飯とワサビ漬けだけの食事がおいしかったと言えば、自分がつくったのだという。すると、このひとは二十代の若い日から、この山にこもっていたのかとおどろかされた。ワサビ田つくりが本職なのかもしれないが。踊平から頂上を往復して赤杭尾根を下る。|古里《こり》までの歩きは十六キロ。七時間半かかった。昔の行程を歩けば十時間かかったことであろう。