私は東京に生まれ育ってふるさとの山を持たない。しかし、生涯に数多く登って、もっとも歩き馴れ、その渓流、山径に親しんだ山、ふるさとのように思える山と聞かれたら、|高水山《たかみずやま》と答えたい。
十代の終り頃から登りはじめ、結婚式を数日後に控えたときにも、これが娘時代との別れと思って登って来た。戦後十年ほどたってから登って、その間二十数年たったのに、国電の軍畑から小田原秩父街道に出て平溝に至り、左折して杉木立ちの中の急坂を登る道が、ほとんど戦前と変っていないのに感激した。下流に横田基地を持つ多摩川の谷は、開発の名のもとに、住宅建設やゴルフ場の創設で、木を伐られ、丘も削られという姿を見、上流に奥多摩湖が出来て、来る度に谷筋の観光地化が進んでいるのを知らされていたので、高水山から岩茸山、惣岳山と、八百メートル足らずの峰を連ねる道が、ほとんど昔と変らぬままなのがうれしかった。ただ、眼に入る植林の杉木立ちが、かつての日から一度は伐られ、次に植えられた苗木が生長したものであろうという感慨だけがあった。軍畑とは、永禄六年、二俣尾に城を築いていた、平将門の子孫と伝えられる三田弾正綱秀が、北条氏照に攻められて、|辛垣《からがい》城に敗れたときの古戦場のあとだと言う。
多摩川の谷に南面する二俣尾の海禅寺には、三田氏の墓があり、その背後の杉木立ちの中の道を登って辛垣山に城址をたずね、更に登って雷電山までいったことがある。
敗残の兵たちは岩槻方面に逃げたというから、雷電山の峰伝いに、高水山中から岩茸山に至り、名栗谷に下りて飯能から川越へと進んだものもあったろう。高水山にはよく着物に下駄履きのままでいった。はじめの急坂だけを過ぎれば、頂上近い浪切不動の堂までの道は、着物でも十分に歩けるような緩やかな登りがつづく。
浪切不動の本尊は智証大師と伝えられ、鎌倉幕府の武将、畠山重忠の持仏であったとか。畠山氏の本拠は秩父である。遠祖は桓武天皇の曾孫の高望王。その子、良将は将門の父となり、良文は秩父の村岡に住んだが、将門が挙兵した時、良文の子の忠頼は討伐側にまわった。忠頼の子孫が秩父氏となり、畠山に住んだものは畠山氏を名乗るようになった。
畠山重忠は勇武の家に生まれながら風流のたしなみがあり、文治二年、源義経の妾、静御前が、頼朝に捕えられ、鶴岡八幡の社殿で舞いを舞わされた時、工藤祐経の鼓に合せて、重忠が銅拍子を打って伴奏している。秩父は畠山氏の所領であったので、御嶽神社への崇敬深く、重忠の自筆の願文や、重忠着用の甲冑や太刀が奉納され、多摩川をはさんで対岸の高水山には持仏がささげられたのであろう。秩父から鎌倉へゆくには、高水山の東麓をまわって多摩川の谷に出たので、その通り路にあたっている。頼朝の死後、北条時政は、幕府草創時代からの豪族を次々に亡ぼしていったが、重忠も謀略にかかって、秩父の館を出て、鎌倉に向かう途中、都築郡の二俣川で殺された。
畠山氏だけでなく、秩父を発祥の地にした豪族の比企氏も、時政にたばかられて斬られている。山の清涼の気に培われた剛直の心は、狡猾な政治家の欺瞞を見抜けなかったのであろう。
近くに山を持たない東京の人間にとって、山のすがすがしい空気に浸りたいと思えば、一番近いのは高尾山だけれども、もっと深い山と渓谷の美を求めれば、多摩川をさかのぼることになる。多摩川の水は長く東京の市民の命を支えて来た。京のひとたちが、鴨川の水で産湯をつかったというなら、東京の人間は、多摩川の流れの奥に連なる山々には、母なる山々ともよびたいような愛着の思いが湧く。そしてまた、水ゆたかなその谷筋は、関東地方にあって、もっとも古くからひとびとの住みついた場所の一つでもあった。
高水山には春も秋も登ったが、春はアケボノスミレ、エイザンスミレ、ヒトリシズカ、ハナネコノメソウ、センボンヤリ、ヤマルリソウなどが殊に目立ち、秋は、ツルリンドウの赤い実を見つけるのがたのしみであった。花よりも実の方がきれいな草があるけれど、ツルリンドウはこんなにか細い草がと、びっくりするほど大きく赤くつややかな実をつける。
あへぎつつすすきの山を登り来て
かへりみる山の目にし高しも
学生時代の秋、尾上柴舟先生を案内して友人数名と登った時の先生のお作である。先生はまだ五十代でいられたと思うが、二十代の私たちに足を合せるのが苦しかった、とあとで言われた。
十代の終り頃から登りはじめ、結婚式を数日後に控えたときにも、これが娘時代との別れと思って登って来た。戦後十年ほどたってから登って、その間二十数年たったのに、国電の軍畑から小田原秩父街道に出て平溝に至り、左折して杉木立ちの中の急坂を登る道が、ほとんど戦前と変っていないのに感激した。下流に横田基地を持つ多摩川の谷は、開発の名のもとに、住宅建設やゴルフ場の創設で、木を伐られ、丘も削られという姿を見、上流に奥多摩湖が出来て、来る度に谷筋の観光地化が進んでいるのを知らされていたので、高水山から岩茸山、惣岳山と、八百メートル足らずの峰を連ねる道が、ほとんど昔と変らぬままなのがうれしかった。ただ、眼に入る植林の杉木立ちが、かつての日から一度は伐られ、次に植えられた苗木が生長したものであろうという感慨だけがあった。軍畑とは、永禄六年、二俣尾に城を築いていた、平将門の子孫と伝えられる三田弾正綱秀が、北条氏照に攻められて、|辛垣《からがい》城に敗れたときの古戦場のあとだと言う。
多摩川の谷に南面する二俣尾の海禅寺には、三田氏の墓があり、その背後の杉木立ちの中の道を登って辛垣山に城址をたずね、更に登って雷電山までいったことがある。
敗残の兵たちは岩槻方面に逃げたというから、雷電山の峰伝いに、高水山中から岩茸山に至り、名栗谷に下りて飯能から川越へと進んだものもあったろう。高水山にはよく着物に下駄履きのままでいった。はじめの急坂だけを過ぎれば、頂上近い浪切不動の堂までの道は、着物でも十分に歩けるような緩やかな登りがつづく。
浪切不動の本尊は智証大師と伝えられ、鎌倉幕府の武将、畠山重忠の持仏であったとか。畠山氏の本拠は秩父である。遠祖は桓武天皇の曾孫の高望王。その子、良将は将門の父となり、良文は秩父の村岡に住んだが、将門が挙兵した時、良文の子の忠頼は討伐側にまわった。忠頼の子孫が秩父氏となり、畠山に住んだものは畠山氏を名乗るようになった。
畠山重忠は勇武の家に生まれながら風流のたしなみがあり、文治二年、源義経の妾、静御前が、頼朝に捕えられ、鶴岡八幡の社殿で舞いを舞わされた時、工藤祐経の鼓に合せて、重忠が銅拍子を打って伴奏している。秩父は畠山氏の所領であったので、御嶽神社への崇敬深く、重忠の自筆の願文や、重忠着用の甲冑や太刀が奉納され、多摩川をはさんで対岸の高水山には持仏がささげられたのであろう。秩父から鎌倉へゆくには、高水山の東麓をまわって多摩川の谷に出たので、その通り路にあたっている。頼朝の死後、北条時政は、幕府草創時代からの豪族を次々に亡ぼしていったが、重忠も謀略にかかって、秩父の館を出て、鎌倉に向かう途中、都築郡の二俣川で殺された。
畠山氏だけでなく、秩父を発祥の地にした豪族の比企氏も、時政にたばかられて斬られている。山の清涼の気に培われた剛直の心は、狡猾な政治家の欺瞞を見抜けなかったのであろう。
近くに山を持たない東京の人間にとって、山のすがすがしい空気に浸りたいと思えば、一番近いのは高尾山だけれども、もっと深い山と渓谷の美を求めれば、多摩川をさかのぼることになる。多摩川の水は長く東京の市民の命を支えて来た。京のひとたちが、鴨川の水で産湯をつかったというなら、東京の人間は、多摩川の流れの奥に連なる山々には、母なる山々ともよびたいような愛着の思いが湧く。そしてまた、水ゆたかなその谷筋は、関東地方にあって、もっとも古くからひとびとの住みついた場所の一つでもあった。
高水山には春も秋も登ったが、春はアケボノスミレ、エイザンスミレ、ヒトリシズカ、ハナネコノメソウ、センボンヤリ、ヤマルリソウなどが殊に目立ち、秋は、ツルリンドウの赤い実を見つけるのがたのしみであった。花よりも実の方がきれいな草があるけれど、ツルリンドウはこんなにか細い草がと、びっくりするほど大きく赤くつややかな実をつける。
あへぎつつすすきの山を登り来て
かへりみる山の目にし高しも
学生時代の秋、尾上柴舟先生を案内して友人数名と登った時の先生のお作である。先生はまだ五十代でいられたと思うが、二十代の私たちに足を合せるのが苦しかった、とあとで言われた。