塩原温泉には、娘時代に、知り合いのおじいさん、おばあさんたちにつれられていった。もうその頃は、鬼怒川温泉がさかんに宣伝され、塩原は鬼怒川にくらべて、家族向きで静かだからと、夏の避暑地としてえらばれたのである。
まだ箒川の渓谷ぞいの道も狭くて、岩壁を削りとった急角度の曲りに、幾度となく肝をひやした。
しかし、那須野ヶ原を横切って、だんだんに渓谷に入る道は大樹が多くて、緑の茂りかたが、箱根や碓氷峠よりも深い気がし、この谷が昔からの落人伝説を秘めているのも当然なような気がした。
いつか田野温泉から嵯峨塩温泉を通って大菩薩峠にゆき、日野川の谷が、武田氏の古戦場になっていたことを知ったが、塩原の谷は、日野川の谷よりもずっと大きく広く、且つ急峻である。源氏の、また南朝遺臣の伝説に加えて、近くは敗亡の彰義隊士たちもこの谷をさかのぼって会津におちのびていった。
私がはじめて入湯したのは、塩の湯である。塩釜温泉から、箒川の支流の谷深いところに、これも古い歴史を秘めて湧き出ているのだが、客室から、下の渓川沿いの浴室までは長い階段を下りてゆく。近視眼の私は、眼鏡をとって、そこが混浴とも知らずに着物を脱いで浴槽に足を踏み入れ、湯気の中に何人もの男の顔を見出して、全身寒気だってしまった。おじいさんやおばあさんたちもあとから、何の屈託もなく入って来て、さわぎたてるのもみっともないし、といって、外に出て、裸身をひとびとの眼にさらすのもいやで、それでなくても熱い塩の湯で、渓流に手拭いをひたしては、さかんに頭の上をひやしながら、早く自分一人になればよいと思っていた。
戦後二十年ほどして、大腿骨骨折の手術をした病院が、塩原に温泉療養所をもっていたので、やはり塩釜の旅館に真夏の一カ月ほど滞在したが、もう野天を別にしては、浴室は男女に分れていて、ゆっくりと窓越しの渓流を見ながら、入浴をたのしむことができた。
足も塩原の湯のおかげですっかりなおり、塩原の高原山から那須岳への計画をしたのはつい最近のことである。
ツツジのさかりには又くることにして、塩原の紅葉も観賞したい気持ちであった。
それがどんなに鮮やかであるかは、渓谷の大樹にいろいろの楓が多いことで想像がつく。
その日は日光から入って、日塩道路の紅葉もたのしむことにしたが、十月の末でいささかおそく、カツラ、ミズキ、シラカバ、ヤチダモ、ミズナラなどの濶葉樹の葉はおちつくしていた。
遠くから、高原山と一つになって見える山は、|鶏頂《けいちよう》山、釈迦ヶ岳などの峰にわかれ、先ず鶏頂山の北斜面から登った。一面のクマザサのゆるやかな道が針葉樹の樹林帯になっていて、ところどころに枯木沼や大沼などの湿原がある。草も枯れて、アザミやギボウシやアキノキリンソウなどの枯れ葉が目立ち、花盛りの六月から七月に、ツツジを見ながら再遊したいと思った。登りが急になるあたりに弁天池があり、そのあたりにはノハナショウブが枯れながら、立派な実をたくさんつけていた。これも是非花を見たい、鶏頂山の頂きを被う針葉樹の濃い緑を背景にして、その紫はどんなにいろ美しく映えることかと思った。
山頂は釈迦ヶ岳にかけての大きな爆裂火口の一端となっていて、東に鋭くおちこんでいる。
釈迦ヶ岳から更に東に、剣ヶ峰を経て、八方が原牧場への道がのび、今はそれらの山々も針葉樹の緑一色となっている。塩原も、塩釜、福渡と箒川が下流になるほど紅葉はちょうど見頃だと言う。山の仲間には、日の暮れないうちに、紅葉の盛りを見たいものが多く、鶏頂山の道をもとにもどった。ゆきはあえぎあえぎ来てあまり気づかなかったが、この山の北斜面にはじつにショウジョウバカマが多い。雪がとけると、春一番に山を飾る花である。いつか京の三千院の庭で緋いろのショウジョウバカマの大群落を見た。二度目にいくとすっかりなくなっていて、庭には幾つかの巨石がすえられていた。野生の花より巨石の方が庭の格が上るとでも思われたのだろうが、緋のいろが燃えるようであったので惜しい気がした。鶏頂山にはどんないろの花が咲くのか。同じ薄紅でも土地によってちがう。白い花もあるかもしれないと、これも再遊の思いをそそった。
まだ箒川の渓谷ぞいの道も狭くて、岩壁を削りとった急角度の曲りに、幾度となく肝をひやした。
しかし、那須野ヶ原を横切って、だんだんに渓谷に入る道は大樹が多くて、緑の茂りかたが、箱根や碓氷峠よりも深い気がし、この谷が昔からの落人伝説を秘めているのも当然なような気がした。
いつか田野温泉から嵯峨塩温泉を通って大菩薩峠にゆき、日野川の谷が、武田氏の古戦場になっていたことを知ったが、塩原の谷は、日野川の谷よりもずっと大きく広く、且つ急峻である。源氏の、また南朝遺臣の伝説に加えて、近くは敗亡の彰義隊士たちもこの谷をさかのぼって会津におちのびていった。
私がはじめて入湯したのは、塩の湯である。塩釜温泉から、箒川の支流の谷深いところに、これも古い歴史を秘めて湧き出ているのだが、客室から、下の渓川沿いの浴室までは長い階段を下りてゆく。近視眼の私は、眼鏡をとって、そこが混浴とも知らずに着物を脱いで浴槽に足を踏み入れ、湯気の中に何人もの男の顔を見出して、全身寒気だってしまった。おじいさんやおばあさんたちもあとから、何の屈託もなく入って来て、さわぎたてるのもみっともないし、といって、外に出て、裸身をひとびとの眼にさらすのもいやで、それでなくても熱い塩の湯で、渓流に手拭いをひたしては、さかんに頭の上をひやしながら、早く自分一人になればよいと思っていた。
戦後二十年ほどして、大腿骨骨折の手術をした病院が、塩原に温泉療養所をもっていたので、やはり塩釜の旅館に真夏の一カ月ほど滞在したが、もう野天を別にしては、浴室は男女に分れていて、ゆっくりと窓越しの渓流を見ながら、入浴をたのしむことができた。
足も塩原の湯のおかげですっかりなおり、塩原の高原山から那須岳への計画をしたのはつい最近のことである。
ツツジのさかりには又くることにして、塩原の紅葉も観賞したい気持ちであった。
それがどんなに鮮やかであるかは、渓谷の大樹にいろいろの楓が多いことで想像がつく。
その日は日光から入って、日塩道路の紅葉もたのしむことにしたが、十月の末でいささかおそく、カツラ、ミズキ、シラカバ、ヤチダモ、ミズナラなどの濶葉樹の葉はおちつくしていた。
遠くから、高原山と一つになって見える山は、|鶏頂《けいちよう》山、釈迦ヶ岳などの峰にわかれ、先ず鶏頂山の北斜面から登った。一面のクマザサのゆるやかな道が針葉樹の樹林帯になっていて、ところどころに枯木沼や大沼などの湿原がある。草も枯れて、アザミやギボウシやアキノキリンソウなどの枯れ葉が目立ち、花盛りの六月から七月に、ツツジを見ながら再遊したいと思った。登りが急になるあたりに弁天池があり、そのあたりにはノハナショウブが枯れながら、立派な実をたくさんつけていた。これも是非花を見たい、鶏頂山の頂きを被う針葉樹の濃い緑を背景にして、その紫はどんなにいろ美しく映えることかと思った。
山頂は釈迦ヶ岳にかけての大きな爆裂火口の一端となっていて、東に鋭くおちこんでいる。
釈迦ヶ岳から更に東に、剣ヶ峰を経て、八方が原牧場への道がのび、今はそれらの山々も針葉樹の緑一色となっている。塩原も、塩釜、福渡と箒川が下流になるほど紅葉はちょうど見頃だと言う。山の仲間には、日の暮れないうちに、紅葉の盛りを見たいものが多く、鶏頂山の道をもとにもどった。ゆきはあえぎあえぎ来てあまり気づかなかったが、この山の北斜面にはじつにショウジョウバカマが多い。雪がとけると、春一番に山を飾る花である。いつか京の三千院の庭で緋いろのショウジョウバカマの大群落を見た。二度目にいくとすっかりなくなっていて、庭には幾つかの巨石がすえられていた。野生の花より巨石の方が庭の格が上るとでも思われたのだろうが、緋のいろが燃えるようであったので惜しい気がした。鶏頂山にはどんないろの花が咲くのか。同じ薄紅でも土地によってちがう。白い花もあるかもしれないと、これも再遊の思いをそそった。