まだ十代で、多摩川や秋川ぞいの奥多摩の山々を歩きはじめた頃、次の目標としてあこがれたのは雲取や大菩薩であった。秋晴れの朝も早く、省線と呼んでいた国電の|山手《やまのて》線で、上野から新宿までを走るとき、|日暮里《につぽり》や田端、大塚、|高田馬場《たかだのばば》、新大久保などの高台にある駅のホームからは、北は男体山を中心とする日光連山から、武甲山、武川岳、川苔山、雲取とつづく秩父前衛の山々、大岳、御前山と並ぶ奥多摩の山嶺が、大菩薩、小金沢へと連なって、関東平野をかこむ屏風のようにそびえたつのを望み見ることができた。
秋も深まり、木枯の風が吹き荒れる頃、その山々は紫紺の深さを増し、十二月に入るともうその頂きに白々と雪のいろを浮べたりする。大菩薩や雲取は二千メートルを越えているので、冬の訪れもいち早かったのであろう。一月から二月にかけては、白銀の嶺となって、山恋いの思いをそそられた。
結婚式を控えての秋、弟の友人の大学生二人と大菩薩にいった。前日の土曜日の午後から|初鹿野《はじかの》にゆき、|日川《につかわ》の谷を田野から天目山にと進んで、その夜は板ぶき屋根の嵯峨塩温泉に泊った。風邪で熱が八度位あったのだが、どうしてもこの日の外に時間がない。私は雲取にも登ってから挙式したいと先方に申入れたのを、それでは一月のびることになるとことわられて機嫌が悪かった。風邪が肺炎になれば、いやでも応でも挙式はのびるだろう位な気持ちで、日川の谷をつめていった。ここには、武田勝頼敗亡の悲劇のあとがいろいろとあり、途中で休んだ天目山|栖雲《せいうん》寺の坊さんから、日川とは戦いの血汐のいろで赤く染められた血川であるなどとも、聞かされた。
いろづきはじめた嵯峨塩までの道は、ミズナラやカエデやクリの林の下草に、リンドウやアザミの青や紫が盛んな秋の姿を見せ、リュウノウギクの白も点々として、自然の華麗さが却って人間のはかなさを思わせた。
あくる日、笹藪の中のジグザグの悪路をすべったり、笹の根にしがみついたりして日川尾根に取りついたが、熱のあるからだには苦しくて、気息えんえん、地図には|杣坂《そまざか》峠とあったが、私は一人、エンエン峠と名づけた。
尾根道はシラカバの大原生林で、そのまっ白な幹の白さとあざやかな黄葉の中を、起伏をくりかえしながら、武田勝頼や、小田原の北条家から嫁いで来た年若い妻が、せめてこの尾根まで辿りつけたら、多摩川の谷に逃げることもできたろうにといたましかった。
大菩薩の名にあこがれたのは、石井鶴三画伯が描いた中里介山の小説の中の人物、机龍之介の虚無と孤愁に満ちた風貌を、実際の峠に立って思い浮べたかったのかもしれない。
しかし、大菩薩嶺の黒々とした針葉樹林を右に、大菩薩峠から上日川峠へと下る南面の草原に憩って、その広濶な眺めを一望しながら、龍之介の相手を射抜く鋭い視線は、やはり病んだ都会人のもの、この天と地が壮大な交響曲を奏でているような場所に身をおいたら、人間の心はもっとおのれの無力に徹して、つつましくおだやかになったのではないかと思ったりもした。
|裂石《さけいし》のバス停に来て測ると熱は七度五分に下っていて、心だけでなく、山は、病んだからだをも鎮め、和めてくれると知ったのである。
写真機が苦手の私は、山ゆきにはいつも写生帖をもって歩く。もう四十何年昔のものも残っていて、数年前の大菩薩行の前に開けて見たら、枯れて黄ばんだ押葉が二枚ハラリと落ちた。何の葉かわからない。先が矢羽の形に切れているのが、古戦場にふさわしいと興味を感じたのであろう。そばに武田家滅亡の日川の谷にてと書いてある。
二度目も秋で、嵯峨塩から登り、小菅川沿いに橋立まで下りた。当日は一日雨に降られ通しであったのに、山が明るくなっていて、この四十年に伐られた木々の多いことを思った。
昨年の夏、四国の横倉山に登ったとき、先が矢羽の形をした葉を見つけ、大菩薩の押葉はこれだったと思い出した。一株を大事に持って来て鉢に植えたら、今年の六月、幾つかにかたまった白く美しい五弁の花をつけ、図鑑を見ると、ギンバイソウで、ユキノシタ科、分布は関東以西、四国、九州とあった。植物学者の飯泉優氏にうかがうと、クサタチバナもギンバイソウも、千葉県の南から秩父の山々、紀伊半島、四国の南を通って九州を二分しての南部、いわゆる|ソハヤキ《ヽヽヽヽ》地域にのみ生育するのだという。日川の谷に今もあるかどうか、初夏の三度目の大菩薩行きをと考えている。
秋も深まり、木枯の風が吹き荒れる頃、その山々は紫紺の深さを増し、十二月に入るともうその頂きに白々と雪のいろを浮べたりする。大菩薩や雲取は二千メートルを越えているので、冬の訪れもいち早かったのであろう。一月から二月にかけては、白銀の嶺となって、山恋いの思いをそそられた。
結婚式を控えての秋、弟の友人の大学生二人と大菩薩にいった。前日の土曜日の午後から|初鹿野《はじかの》にゆき、|日川《につかわ》の谷を田野から天目山にと進んで、その夜は板ぶき屋根の嵯峨塩温泉に泊った。風邪で熱が八度位あったのだが、どうしてもこの日の外に時間がない。私は雲取にも登ってから挙式したいと先方に申入れたのを、それでは一月のびることになるとことわられて機嫌が悪かった。風邪が肺炎になれば、いやでも応でも挙式はのびるだろう位な気持ちで、日川の谷をつめていった。ここには、武田勝頼敗亡の悲劇のあとがいろいろとあり、途中で休んだ天目山|栖雲《せいうん》寺の坊さんから、日川とは戦いの血汐のいろで赤く染められた血川であるなどとも、聞かされた。
いろづきはじめた嵯峨塩までの道は、ミズナラやカエデやクリの林の下草に、リンドウやアザミの青や紫が盛んな秋の姿を見せ、リュウノウギクの白も点々として、自然の華麗さが却って人間のはかなさを思わせた。
あくる日、笹藪の中のジグザグの悪路をすべったり、笹の根にしがみついたりして日川尾根に取りついたが、熱のあるからだには苦しくて、気息えんえん、地図には|杣坂《そまざか》峠とあったが、私は一人、エンエン峠と名づけた。
尾根道はシラカバの大原生林で、そのまっ白な幹の白さとあざやかな黄葉の中を、起伏をくりかえしながら、武田勝頼や、小田原の北条家から嫁いで来た年若い妻が、せめてこの尾根まで辿りつけたら、多摩川の谷に逃げることもできたろうにといたましかった。
大菩薩の名にあこがれたのは、石井鶴三画伯が描いた中里介山の小説の中の人物、机龍之介の虚無と孤愁に満ちた風貌を、実際の峠に立って思い浮べたかったのかもしれない。
しかし、大菩薩嶺の黒々とした針葉樹林を右に、大菩薩峠から上日川峠へと下る南面の草原に憩って、その広濶な眺めを一望しながら、龍之介の相手を射抜く鋭い視線は、やはり病んだ都会人のもの、この天と地が壮大な交響曲を奏でているような場所に身をおいたら、人間の心はもっとおのれの無力に徹して、つつましくおだやかになったのではないかと思ったりもした。
|裂石《さけいし》のバス停に来て測ると熱は七度五分に下っていて、心だけでなく、山は、病んだからだをも鎮め、和めてくれると知ったのである。
写真機が苦手の私は、山ゆきにはいつも写生帖をもって歩く。もう四十何年昔のものも残っていて、数年前の大菩薩行の前に開けて見たら、枯れて黄ばんだ押葉が二枚ハラリと落ちた。何の葉かわからない。先が矢羽の形に切れているのが、古戦場にふさわしいと興味を感じたのであろう。そばに武田家滅亡の日川の谷にてと書いてある。
二度目も秋で、嵯峨塩から登り、小菅川沿いに橋立まで下りた。当日は一日雨に降られ通しであったのに、山が明るくなっていて、この四十年に伐られた木々の多いことを思った。
昨年の夏、四国の横倉山に登ったとき、先が矢羽の形をした葉を見つけ、大菩薩の押葉はこれだったと思い出した。一株を大事に持って来て鉢に植えたら、今年の六月、幾つかにかたまった白く美しい五弁の花をつけ、図鑑を見ると、ギンバイソウで、ユキノシタ科、分布は関東以西、四国、九州とあった。植物学者の飯泉優氏にうかがうと、クサタチバナもギンバイソウも、千葉県の南から秩父の山々、紀伊半島、四国の南を通って九州を二分しての南部、いわゆる|ソハヤキ《ヽヽヽヽ》地域にのみ生育するのだという。日川の谷に今もあるかどうか、初夏の三度目の大菩薩行きをと考えている。