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花の百名山23

时间: 2020-06-26    进入日语论坛
核心提示:尾瀬沼  ギョウジャニンニク(ユリ科) はじめて三平峠から尾瀬に入って、樹々の間にゆれ動く尾瀬沼を見出したときのおどろき
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尾瀬沼  ギョウジャニンニク(ユリ科)  
 
 はじめて三平峠から尾瀬に入って、樹々の間にゆれ動く尾瀬沼を見出したときのおどろきがなつかしい。
山へゆくのは、つねに何らかのおどろきを求めているのだけれど、おどろきという感情は、二度、三度とくりかえされるうちに、その鮮度がうすれてゆくようである。
山上にある湖沼との出あいは、箱根や赤城や日光で経験ずみであったけれど、尾瀬沼周辺には、それら、観光地化されたものからはとうに失われてしまった神秘的な眺めがいろ濃く残っていた。
その日は雨降りであったせいか霧にかすんで、水のいろも灰いろにくすんでいて、何か死者のゆく冥府の眺めとは、こんなものかと思えたが、そばに近づくとさざなみを立ててゆれている。沼は生きている。ハッとそのことに気づいた。
尾瀬沼も見馴れてくると、次いでその奥の小沼の姿が新らしく神秘さを伝えてくれた。神秘の神という字は、私には神が創った大自然というような意味を持つ。自然現象に、ことさらに大という文字をかぶせるのは、神の創造の偉大さをたたえたい気持ちがある。小沼は、まわりの木々が高々と茂っている底に、小さく水をたたえているのが、却って深遠な感じである。
尾瀬沼や小沼は、この地帯を走る那須火山脈の活動によって、北方に燧ヶ岳ができた時の熔岩流による堰止湖だという。白砂|乗越《のつこし》を経てゆく西側の尾瀬ヶ原は、同じく火山作用による湖沼が退化して湿原になったものだという。
尾瀬沼の水は沼尻川となり、湿地の水をあつめて只見川となって日本海に注ぎ、南の山々の水は、片品川、笠科川となって利根川から太平洋にと向かう。遠い将来には、湿原は草の台地に、沼は湿地となり、やがてこれも草の台地に変ることがあるだろう。
その頃は千四百メートルから二千三百メートルの高さで尾瀬をかこむ急峻な山々は、のどかな丘と変って、車も乗入れ自由な、軽井沢のような別荘地になるかもしれない。
どうぞその日まで、尾瀬は訪れるひとに、神の創造の姿におどろくことのできる神秘性溢れる場所であってほしい。
尾瀬の花といえば、ひとはすぐミズバショウをあげるけれども、これは見馴れるとあまりおどろきがない。
ミズバショウはサトイモ科だという。サトイモは湿地に栽培され、暖地を好むという。
もう大分前のことだけれど、エジプトのナイル川のほとり、首都カイロの郊外で、見渡す限りのサトイモ畑を見たことがある。
ナセル大統領は、砂漠に水を引いて、サトイモが栽培できるほどの土地改良をやったのである。はるかにピラミッドをのぞんで、大きなサトイモの葉が風にそよぐ姿は偉観であった。そしてそのとき、見馴れたサトイモがおどろきをもって、ひどく新鮮に見えた。
ミズバショウをはじめて見たのは、長野県戸隠の越水原である。
戦後間もなくて、まだバードラインもできていない頃、うしろの柏原——これは今、クロヒメとなっている——から登り、奥社の参道の前をすぎて、その夜の宿の中社の久山家へゆく途中であった。戸隠表山の切りたったような峻嶺が、夕映えを背景に、くろぐろと浮び上っていた。
越水原には夕闇がただよいはじめていて、コナシのみどりが茂りあう林間の湿地に、白々と浮び上ったミズバショウの苞が美しかった。不思議なほどに、どこでもミズバショウのそばには必ずリュウキンカの黄金いろの花が咲いているけれど、ここにもその花がいっぱいあった。
ミズバショウはその後、北海道の根室まで列車でいった時、沿線の田圃の畦道に、いくらでも咲いているのを見た。屈斜路湖のほとりにも観光客に踏みしだかれて咲いていた。
有峰から太郎兵衛平に登る坂道のかたわらにもあった。尾瀬にはじめていったのは秋であったから、ミズバショウはもう枯れ葉になっていた。そして次にはミズバショウの盛りの夏に鳩待峠からいったのだけれど、川上川の岸にいっぱい咲いていたミズバショウより、笹藪の中のシラネアオイの美しさの方に気をとられた。
尾瀬のミズバショウに感激したのは、長蔵小屋の平野長英さんの令息の長靖さんが、尾瀬をまもる会のことで、環境庁のひとたちと話しあうために、十二月の雪の三平峠を下りて来て、急死された年が明けての初夏である。
長靖さんには、長蔵小屋に泊ったときおあいした。京都大学文学部出身、北海道新聞社勤務ということで、戦後の京都に十年近く住み、兄や従弟や甥が北大の出身で、札幌に馴染みの多い私には共通の話題が多かった。物静かな人柄はアララギ派の歌人である父君の長英さんゆずりで、尾瀬はこんなかたにこそ、まもってほしいと思われた。
その長靖さんの若い死を悼んで、大江川湿原の中にあるその墓に詣ろうと、沼山峠を下りてくると、一面のミズバショウが、朝陽を受けてまぶしいばかりの純白にかがやいていた。私にはその苞のことごとくが、長靖さんの霊にささげられた灯のように思えた。
尾瀬の花では池に春の訪れを告げて咲くタテヤマリンドウが、小さいながら春の明るさをその青のひといろの花びらにこめていて心惹かれる。尾瀬の春を早々と告げるのはヤマドリゼンマイとギョウジャニンニクの緑である。一方は黄みどり、一方はエメラルドグリーンで、その勢いのよさがいかにも春のよろこびをうたいあげているようである。このニンニクは北海道の山々にもたくさんあり、アイヌのひとたちは食用にしたよし。一度食べてみたいけれど、匂いの方はどうであろう。
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