登っても見ず、地図の上だけで、山の姿や樹の生え方を想像するのはたのしい。
それが、前もって、いい山だなどと聞かされると、想像もふくらむのだけれど、だれも何も語ってくれず、ただ、そこに、その山があるという位のことだと、ひとに知られていない山というのは、多分、姿もあまりよくないのだと軽く考えてしまう。こんなことでは本当の山好きとはいえないと、つくづく思わされたのが、大滝根山の真向いにある鎌倉岳である。
福島県田村郡|常葉《ときわ》町に、私の住む区の林間学校がつくられることになり、その場所の標高は約五百メートル、周辺は、タバコ栽培のさかんな農村と聞き、実際の風景も見ずに、東京の郊外とあまり変りばえがしないのではないかと案じた。近くにどんな山があるかと聞けば鎌倉岳という。その名には|惹《ひ》かれた。何か鎌倉幕府にかかわりがあるのだろうか。田村郡は、桓武天皇の平安初期に東北につかわされた|坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》の田村であり、平|将門《まさかど》の子孫と伝えられる相馬氏にゆかりの相馬市も近い。そのあたりは古代にあっての、中央の勢力と、早くから東北に住みついた豪族たちとの接点にちがいないことは、常葉町史によって、上代のこの地に|国 造《くにのみやつこ》とよばれるものがあり、延喜式の神社があることでも知られる。
同じく常葉町史には、頼朝が鎌倉に幕府をひらいて、奥州の藤原氏と戦いを交えたとき、戦功のあった南部氏には岩手の地を与え、千葉氏には、太平洋に面した浜通りの地を与えたため、鎌倉の御家人たちが、このあたりに住みついたと書いてある。
この四月の末の一日、林間学校の|鍬入《くわいれ》式の前に、朝の五時から、学校敷地の真うしろにある鎌倉岳に登った。
東京よりは一カ月もおそい春で、まだ去年の枯れ草や枯れ枝の茂る道をだらだら巻きに登ってゆく。コケリンドウやヤマシロギクやウバユリが芽を出している。湧泉があるらしく、山腹に小さな谷がひらけ、まだ一面の枯れ草に被われていた。
石切場という、広やかなところに出ておどろいた。花崗岩を伐り出したあとが巨大な城壁のようにそそりたっている。清冽な泉が、その真下にも湧いていて、山の形は、その泉を境にして、真二つにわかれる。そこまでは、なだらかに根を張ったゆるやかな台地状で、標高七百メートル位であろうか。泉の真上から、花崗岩の露岩が荒々しく山腹を埋める急斜面の二百数十メートルの山となり、谷をへだてる二つの稜線が近々と迫って、小さいが、けわしい山容をつくっている。南陵についている細い急登の道を、露岩に手をかけかけ登ってゆくのが、まことにおもしろい。そして、枝をさしかわすカラマツやブナやミズナラの大木の下には、ヤマツツジやドウダンやミツバツツジなどの潅木が多く、あと一カ月もすれば、これらのツツジのすべてが咲く。ドウダンはサラサドウダンであろうか。そんな想像に私の心ははずんだ。石切場から一時間あまりで頂上に着き、るいるいたる巨岩の間に小さなお宮ができていて、天日鷲神社と書かれている。この山自身が、御神体とされたのであろうと思った。
素晴しい眺望である。大滝根山、檜山、殿上山、五十人山などが東西南北の眺めの中心になり、その間を丘陵がうずめていて、スイスの山村さながらである。
スイスという言葉から、私たちの抱く心の映像は、山の自然と人間の生活が、長い歴史の中に積み重ねられて来たということである。私の旅をしたスイスも、心に描いた映像を裏切らなかった。人間は、山というきびしい自然の中で、それを利用する知恵をみがき、それとたたかう強靭な意志を育てる。スイスは牧畜がさかんであり、勇武な兵たちを生み、常葉町や隣りの三春町は、かつては軍馬の産地であった。いまは山の斜面を草地につくって牧場としたところが多い。
五月の末、ふたたび鎌倉岳に登った。山の谷は一せいに新緑に映え、真紅のヤマツツジ、赤紫のトウゴクミツバツツジの花盛りであった。全山をいろどるその赤や紫の間を、淡雪のようなほのかな白さで、コバノトネリコの花が咲き競っていた。急傾斜の谷道を登りながら、幾度となくその美しさに見とれ、以後、決して、鎌倉岳を名もなき山などと思うまいと誓った。同行の町役場の村上正夫氏から、カマクラとは|神坐《かみくら》、神のある山として、七世紀から修験の道場とされ、湧泉から上は女人禁制の聖山として大事にされて来たことをうかがった。山の木を伐ったりするものもないので、このように花々が美しいのであろうと思った。
それが、前もって、いい山だなどと聞かされると、想像もふくらむのだけれど、だれも何も語ってくれず、ただ、そこに、その山があるという位のことだと、ひとに知られていない山というのは、多分、姿もあまりよくないのだと軽く考えてしまう。こんなことでは本当の山好きとはいえないと、つくづく思わされたのが、大滝根山の真向いにある鎌倉岳である。
福島県田村郡|常葉《ときわ》町に、私の住む区の林間学校がつくられることになり、その場所の標高は約五百メートル、周辺は、タバコ栽培のさかんな農村と聞き、実際の風景も見ずに、東京の郊外とあまり変りばえがしないのではないかと案じた。近くにどんな山があるかと聞けば鎌倉岳という。その名には|惹《ひ》かれた。何か鎌倉幕府にかかわりがあるのだろうか。田村郡は、桓武天皇の平安初期に東北につかわされた|坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》の田村であり、平|将門《まさかど》の子孫と伝えられる相馬氏にゆかりの相馬市も近い。そのあたりは古代にあっての、中央の勢力と、早くから東北に住みついた豪族たちとの接点にちがいないことは、常葉町史によって、上代のこの地に|国 造《くにのみやつこ》とよばれるものがあり、延喜式の神社があることでも知られる。
同じく常葉町史には、頼朝が鎌倉に幕府をひらいて、奥州の藤原氏と戦いを交えたとき、戦功のあった南部氏には岩手の地を与え、千葉氏には、太平洋に面した浜通りの地を与えたため、鎌倉の御家人たちが、このあたりに住みついたと書いてある。
この四月の末の一日、林間学校の|鍬入《くわいれ》式の前に、朝の五時から、学校敷地の真うしろにある鎌倉岳に登った。
東京よりは一カ月もおそい春で、まだ去年の枯れ草や枯れ枝の茂る道をだらだら巻きに登ってゆく。コケリンドウやヤマシロギクやウバユリが芽を出している。湧泉があるらしく、山腹に小さな谷がひらけ、まだ一面の枯れ草に被われていた。
石切場という、広やかなところに出ておどろいた。花崗岩を伐り出したあとが巨大な城壁のようにそそりたっている。清冽な泉が、その真下にも湧いていて、山の形は、その泉を境にして、真二つにわかれる。そこまでは、なだらかに根を張ったゆるやかな台地状で、標高七百メートル位であろうか。泉の真上から、花崗岩の露岩が荒々しく山腹を埋める急斜面の二百数十メートルの山となり、谷をへだてる二つの稜線が近々と迫って、小さいが、けわしい山容をつくっている。南陵についている細い急登の道を、露岩に手をかけかけ登ってゆくのが、まことにおもしろい。そして、枝をさしかわすカラマツやブナやミズナラの大木の下には、ヤマツツジやドウダンやミツバツツジなどの潅木が多く、あと一カ月もすれば、これらのツツジのすべてが咲く。ドウダンはサラサドウダンであろうか。そんな想像に私の心ははずんだ。石切場から一時間あまりで頂上に着き、るいるいたる巨岩の間に小さなお宮ができていて、天日鷲神社と書かれている。この山自身が、御神体とされたのであろうと思った。
素晴しい眺望である。大滝根山、檜山、殿上山、五十人山などが東西南北の眺めの中心になり、その間を丘陵がうずめていて、スイスの山村さながらである。
スイスという言葉から、私たちの抱く心の映像は、山の自然と人間の生活が、長い歴史の中に積み重ねられて来たということである。私の旅をしたスイスも、心に描いた映像を裏切らなかった。人間は、山というきびしい自然の中で、それを利用する知恵をみがき、それとたたかう強靭な意志を育てる。スイスは牧畜がさかんであり、勇武な兵たちを生み、常葉町や隣りの三春町は、かつては軍馬の産地であった。いまは山の斜面を草地につくって牧場としたところが多い。
五月の末、ふたたび鎌倉岳に登った。山の谷は一せいに新緑に映え、真紅のヤマツツジ、赤紫のトウゴクミツバツツジの花盛りであった。全山をいろどるその赤や紫の間を、淡雪のようなほのかな白さで、コバノトネリコの花が咲き競っていた。急傾斜の谷道を登りながら、幾度となくその美しさに見とれ、以後、決して、鎌倉岳を名もなき山などと思うまいと誓った。同行の町役場の村上正夫氏から、カマクラとは|神坐《かみくら》、神のある山として、七世紀から修験の道場とされ、湧泉から上は女人禁制の聖山として大事にされて来たことをうかがった。山の木を伐ったりするものもないので、このように花々が美しいのであろうと思った。