北上山地の|早池峰《はやちね》も、あこがれること久しい山であった。
明治神宮に奉納される日本青年館の郷土芸能大会で、早池峰神社の|岳《だけ》|神楽《かぐら》を見たのは戦前の、まだ学生の頃である。同じ|大迫《おおはざま》町の|大 償《おおつぐない》神社の神楽と共に、足利中期から山伏神楽の伝統を今日に伝承しているという。
大償は優雅な七拍子、岳は勇壮な五拍子で男性的な舞いとされ、私の見たのは岳であった。剣と幣を持ち、山の神に五穀の豊穣を祈り、悪魔降伏の願いをこめて舞う。舞手の全身に漲る緊張した線と動き。その幣や剣のさばきにこもる熱気が、したたかに観るものの全身を打ち、心の底までゆり動かされるような感銘を受けた。
鳥海山麓に、やはり五百年の伝統を伝える黒川能をはじめて観たときもそうであったけれど、そこには、中央の能や舞いにみられない、神へのしんじつの祈りがこめられているようで、観るものに大きな感動を与える。
それはひとの心の奥底に、ふだんはひそみかくれている、眼に見えぬ偉大なものへの、崇敬の念をよびもどすことではないだろうか。そのきっかけとして、早池峰や鳥海という山がある。その山容を親しく仰ぎ、その山々の谷にわけ入ってみたい。自分ならばどんな思いをその山から与えられるか。
早池峰は、火山の多い東北地方の山々とは成りたちを異にしていて、古い時代の浸蝕から残された残丘であり、蛇紋岩によってつくられ、特有の地形、特有の植物が見られるという。
羽田から千歳へ行く飛行機の中では、晴れてさえいればいつも窓ぎわに席を求めて、左に安達太良、栗駒がすぎた時、右に転じて早池峰をさがそうとした。数年前の春、まだ残雪の早池峰を時間の許す限りと、岩手日報事業部の中村氏の案内で、河原坊から着物にモンペ、長靴で一時間ほど登ったことがある。雪解けに沢の水は溢れ返り、全身ビショヌレとなって敗退。林間に濃い紅のエンレイソウの花や、カタクリの群落を見た。
つい最近の夏、いつもの山仲間たちと、栗駒山に登って大迫町まで。早池峰神社に近い町営宿舎に一泊。早朝五時からふたたび河原坊口の正面の沢を目ざした。一木一草に眼をとられて足場の悪さも苦にならなかったが、いつか群れよりおくれた私と一人の仲間は、大きなカメラを構えて熱心に写真をとっている青年と連れ立つことになった。じつに花の名にくわしい。岩手大学出身の土井信夫さんで、東京での仕事をやめて、早池峰の植物をとることに没頭されているのだとか。
難路と聞かされた道は沢伝いであるのと、急な登りで、高度をかせげるためにさして辛いとも思わず、七合目、八合目と進んで、あたりはすっかり巨岩の連続となった。昔の修験者たちは一つ一つの岩に名をつけて修錬鍛錬の場にしたらしいが、私たちはただ、岩を埋める花の美しさに息をのむばかり。土井さんから教えられて加藤泰秋氏が発見したというカトウハコベの白い花も見た。この山が南限のナンブトラノオやナンブイヌナズナの鮮麗な薄紅や真黄のいろにも堪能した。ミヤマヤマブキショウマの薄黄の花も見た。これらは岩から岩の間の、ほんのわずかな合間をびっしりと埋めていて、造化の妙とはこのような姿をいうのかと感嘆した。すべてはじめてであった花たちである。ハヤチネウスユキソウもミヤマオダマキも到るところの岩間を埋めていて、一々おどろきの声をあげるひまもない。何故山に登るかと問われて高山植物の花にあうためにと答える私の山旅は、早池峰に至ってその目的を達したようである。からだの疲れもほとんど感じなかった。
案内の大迫町役場の山影青年に聞けば、あの岳神楽を舞うひとたちは、神官やその子孫であるという。日頃から早池峰に登って、心身の修錬を怠らないのだという。あの神楽の動きに見るいのちの躍動は、じつに山の花々から与えられたものであろう。
更にこの山旅でもっともうれしかったことは、帰りみちの林の中に、これもはじめてのオサバグサの大群を見つけたこともあるけれど、最大の収穫は、トチナイソウを見たことである。チシマコザクラの別名を持つ三センチほどの白く小さい花は、岩の間にいっぱい咲いていたヒメコザクラと同じように、本州では早池峰のみに咲く。あまりにも小さくて草地に身を伏せ、ようやくその所在をたしかめたのである。
明治神宮に奉納される日本青年館の郷土芸能大会で、早池峰神社の|岳《だけ》|神楽《かぐら》を見たのは戦前の、まだ学生の頃である。同じ|大迫《おおはざま》町の|大 償《おおつぐない》神社の神楽と共に、足利中期から山伏神楽の伝統を今日に伝承しているという。
大償は優雅な七拍子、岳は勇壮な五拍子で男性的な舞いとされ、私の見たのは岳であった。剣と幣を持ち、山の神に五穀の豊穣を祈り、悪魔降伏の願いをこめて舞う。舞手の全身に漲る緊張した線と動き。その幣や剣のさばきにこもる熱気が、したたかに観るものの全身を打ち、心の底までゆり動かされるような感銘を受けた。
鳥海山麓に、やはり五百年の伝統を伝える黒川能をはじめて観たときもそうであったけれど、そこには、中央の能や舞いにみられない、神へのしんじつの祈りがこめられているようで、観るものに大きな感動を与える。
それはひとの心の奥底に、ふだんはひそみかくれている、眼に見えぬ偉大なものへの、崇敬の念をよびもどすことではないだろうか。そのきっかけとして、早池峰や鳥海という山がある。その山容を親しく仰ぎ、その山々の谷にわけ入ってみたい。自分ならばどんな思いをその山から与えられるか。
早池峰は、火山の多い東北地方の山々とは成りたちを異にしていて、古い時代の浸蝕から残された残丘であり、蛇紋岩によってつくられ、特有の地形、特有の植物が見られるという。
羽田から千歳へ行く飛行機の中では、晴れてさえいればいつも窓ぎわに席を求めて、左に安達太良、栗駒がすぎた時、右に転じて早池峰をさがそうとした。数年前の春、まだ残雪の早池峰を時間の許す限りと、岩手日報事業部の中村氏の案内で、河原坊から着物にモンペ、長靴で一時間ほど登ったことがある。雪解けに沢の水は溢れ返り、全身ビショヌレとなって敗退。林間に濃い紅のエンレイソウの花や、カタクリの群落を見た。
つい最近の夏、いつもの山仲間たちと、栗駒山に登って大迫町まで。早池峰神社に近い町営宿舎に一泊。早朝五時からふたたび河原坊口の正面の沢を目ざした。一木一草に眼をとられて足場の悪さも苦にならなかったが、いつか群れよりおくれた私と一人の仲間は、大きなカメラを構えて熱心に写真をとっている青年と連れ立つことになった。じつに花の名にくわしい。岩手大学出身の土井信夫さんで、東京での仕事をやめて、早池峰の植物をとることに没頭されているのだとか。
難路と聞かされた道は沢伝いであるのと、急な登りで、高度をかせげるためにさして辛いとも思わず、七合目、八合目と進んで、あたりはすっかり巨岩の連続となった。昔の修験者たちは一つ一つの岩に名をつけて修錬鍛錬の場にしたらしいが、私たちはただ、岩を埋める花の美しさに息をのむばかり。土井さんから教えられて加藤泰秋氏が発見したというカトウハコベの白い花も見た。この山が南限のナンブトラノオやナンブイヌナズナの鮮麗な薄紅や真黄のいろにも堪能した。ミヤマヤマブキショウマの薄黄の花も見た。これらは岩から岩の間の、ほんのわずかな合間をびっしりと埋めていて、造化の妙とはこのような姿をいうのかと感嘆した。すべてはじめてであった花たちである。ハヤチネウスユキソウもミヤマオダマキも到るところの岩間を埋めていて、一々おどろきの声をあげるひまもない。何故山に登るかと問われて高山植物の花にあうためにと答える私の山旅は、早池峰に至ってその目的を達したようである。からだの疲れもほとんど感じなかった。
案内の大迫町役場の山影青年に聞けば、あの岳神楽を舞うひとたちは、神官やその子孫であるという。日頃から早池峰に登って、心身の修錬を怠らないのだという。あの神楽の動きに見るいのちの躍動は、じつに山の花々から与えられたものであろう。
更にこの山旅でもっともうれしかったことは、帰りみちの林の中に、これもはじめてのオサバグサの大群を見つけたこともあるけれど、最大の収穫は、トチナイソウを見たことである。チシマコザクラの別名を持つ三センチほどの白く小さい花は、岩の間にいっぱい咲いていたヒメコザクラと同じように、本州では早池峰のみに咲く。あまりにも小さくて草地に身を伏せ、ようやくその所在をたしかめたのである。