いつも山路を一歩一歩息も苦しく登ってゆく度に、人生もこれとそっくりと、自分の過ぎて来た日々を思い返して一人うなずいたりする。苦しくてももどれない道。下りられない道。しかし、頂きにつけばいやでも下りる道はつづいている。
苦しんで登りながら、それが死につづくとはっきり見きわめて敢て下りようとしなかったひと。自分の信仰をまもって、神を捨てるよりは死をえらんだひと。そういうひとの存在を知らされる度に、自分の|懈怠《けだい》がきびしく胸をかむ。
函館の西にある|大千軒《だいせんげん》岳は寛永十六年(一六三九年)にキリスト教徒百六人が斬首された場所として、いつも心の中に重く暗く聳え立っていた。
元和六年(一六二〇年)カルワルホ神父は松前から丸一日かかって大千軒岳に登り、山すその知内川で砂金の採掘をしていた信者たちのためにミサをささげている。多く長崎あたりから逃れて来たひとびとはどんなによろこんだことか。ミサは神との交流のために信者にかかせぬ祭儀である。
その二年前、アンジェリス神父が渡道して来たけれど、津軽の関所がやかましくて、ミサ用の祭具を持って来られなかった。
元和九年(一六二三年)アンジェリス神父は札の辻で焼き殺され、寛永元年(一六二四年)カルワルホ神父は、仙台の広瀬川で、厳冬の氷の中に投げこまれて凍死した。
カルワルホ神父は、知内川の川原に小さな聖堂をつくって去り、ここで礼拝していた信者たちも、神父の殉教後十五年して、川原の石を血で染めたのである。
その夏、山麓の福島町のひとびとに案内されて、大千軒岳登山を果せたのは、どこの山へいった時よりも、一番大きなよろこびであった。
国鉄千軒駅に近い、澄川林道から、知内川の谷に下りて徒渉地点に立った時、はるばると九州からこの山奥まで逃れて来た信者たちの心を思いはかって胸が痛んだが、又、よく今日まで自分の足の力を残しておいてくれたと神に感謝したい気持ちになった。川原の両岸はヤチダモやナナカマドやブナやトドマツ、エゾマツの原生林で、背丈ほどのオオブキやオオイタドリやヨブスマソウ、シシウドなどが藪のように密生している。道はところどころ切れて川の徒渉になり、歩きはじめて二時間して金山番所あとに着いた。松前藩の役人のいたところで、大きな自然石がどっかりと狭い場所をふさいでいる。石の上には十字架が立てられ、石の面には「神彼等をこころみ、炉の中の金の如くためされ、ふさわしき犠えとして受け入れたまいき」という言葉が彫られていた。
ミヤマアキノキリンソウやコンロンソウ、サイハイランなどが咲いている番所あとから、一時間近く林の道を歩くと、一面の広い河原に出た。かつての処刑場のあとである。血のいろのように赤いタニウツギが葉も見えぬほどに花をつけていた。ここからかつての火山活動のあとを示す五百メートルの急な登りになって、もう実になっているカタクリや、花をひらきはじめたショウジョウバカマなどになぐさめられ、ひたすらに登った。意外に息苦しくないのは、いつ熊が出るかわからないという緊張のためか。私の前を歩いている中川泰助さんは両側が背丈をこえる笹藪の前で立ちどまり、ちょっと前に熊の通ったあとだと教えてくれた。藪が道をはさんで両側とも真二つに割れていた。
前千軒と大千軒の鞍部についたのは十二時であった。下では晴れていたのにいつか曇って、この千メートルの尾根筋は視界十数メートルの濃霧につつまれ、風が強く、弁当をひらこうとしても、冷たさに指がかじかんで思うように動かない。霧の中にカルワルホ神父がここを越えていった記念の十字架が白々と立っている。あのひとたちにとって恐しいのは熊でも役人でもその|刃《やいば》でもなく、神にそむいて、神に捨てられることであったのだと思い、そのきびしくも切ない気持ちをしのんで、北斜面から吹きあげる風の中に十字架を見あげながら立ちつくしていた。
大千軒の花は、鞍部のタカネオミナエシもチシマフウロもミヤマアズマギクもエゾカンゾウもまだつぼみであったが、帰途、川沿いの熊の出そうな藪の中に、サルメンエビネが二、三本、薄緑の|萼《がく》に朱赤の唇弁をのぞかせて、つつましく咲いているのを見つけた。四国の石鎚山や横倉山でさがして出あわなかった花が大千軒に。もしかして、九州か四国の信者が、ふるさとなつかしくその根を持って来たのではないかと思った。
苦しんで登りながら、それが死につづくとはっきり見きわめて敢て下りようとしなかったひと。自分の信仰をまもって、神を捨てるよりは死をえらんだひと。そういうひとの存在を知らされる度に、自分の|懈怠《けだい》がきびしく胸をかむ。
函館の西にある|大千軒《だいせんげん》岳は寛永十六年(一六三九年)にキリスト教徒百六人が斬首された場所として、いつも心の中に重く暗く聳え立っていた。
元和六年(一六二〇年)カルワルホ神父は松前から丸一日かかって大千軒岳に登り、山すその知内川で砂金の採掘をしていた信者たちのためにミサをささげている。多く長崎あたりから逃れて来たひとびとはどんなによろこんだことか。ミサは神との交流のために信者にかかせぬ祭儀である。
その二年前、アンジェリス神父が渡道して来たけれど、津軽の関所がやかましくて、ミサ用の祭具を持って来られなかった。
元和九年(一六二三年)アンジェリス神父は札の辻で焼き殺され、寛永元年(一六二四年)カルワルホ神父は、仙台の広瀬川で、厳冬の氷の中に投げこまれて凍死した。
カルワルホ神父は、知内川の川原に小さな聖堂をつくって去り、ここで礼拝していた信者たちも、神父の殉教後十五年して、川原の石を血で染めたのである。
その夏、山麓の福島町のひとびとに案内されて、大千軒岳登山を果せたのは、どこの山へいった時よりも、一番大きなよろこびであった。
国鉄千軒駅に近い、澄川林道から、知内川の谷に下りて徒渉地点に立った時、はるばると九州からこの山奥まで逃れて来た信者たちの心を思いはかって胸が痛んだが、又、よく今日まで自分の足の力を残しておいてくれたと神に感謝したい気持ちになった。川原の両岸はヤチダモやナナカマドやブナやトドマツ、エゾマツの原生林で、背丈ほどのオオブキやオオイタドリやヨブスマソウ、シシウドなどが藪のように密生している。道はところどころ切れて川の徒渉になり、歩きはじめて二時間して金山番所あとに着いた。松前藩の役人のいたところで、大きな自然石がどっかりと狭い場所をふさいでいる。石の上には十字架が立てられ、石の面には「神彼等をこころみ、炉の中の金の如くためされ、ふさわしき犠えとして受け入れたまいき」という言葉が彫られていた。
ミヤマアキノキリンソウやコンロンソウ、サイハイランなどが咲いている番所あとから、一時間近く林の道を歩くと、一面の広い河原に出た。かつての処刑場のあとである。血のいろのように赤いタニウツギが葉も見えぬほどに花をつけていた。ここからかつての火山活動のあとを示す五百メートルの急な登りになって、もう実になっているカタクリや、花をひらきはじめたショウジョウバカマなどになぐさめられ、ひたすらに登った。意外に息苦しくないのは、いつ熊が出るかわからないという緊張のためか。私の前を歩いている中川泰助さんは両側が背丈をこえる笹藪の前で立ちどまり、ちょっと前に熊の通ったあとだと教えてくれた。藪が道をはさんで両側とも真二つに割れていた。
前千軒と大千軒の鞍部についたのは十二時であった。下では晴れていたのにいつか曇って、この千メートルの尾根筋は視界十数メートルの濃霧につつまれ、風が強く、弁当をひらこうとしても、冷たさに指がかじかんで思うように動かない。霧の中にカルワルホ神父がここを越えていった記念の十字架が白々と立っている。あのひとたちにとって恐しいのは熊でも役人でもその|刃《やいば》でもなく、神にそむいて、神に捨てられることであったのだと思い、そのきびしくも切ない気持ちをしのんで、北斜面から吹きあげる風の中に十字架を見あげながら立ちつくしていた。
大千軒の花は、鞍部のタカネオミナエシもチシマフウロもミヤマアズマギクもエゾカンゾウもまだつぼみであったが、帰途、川沿いの熊の出そうな藪の中に、サルメンエビネが二、三本、薄緑の|萼《がく》に朱赤の唇弁をのぞかせて、つつましく咲いているのを見つけた。四国の石鎚山や横倉山でさがして出あわなかった花が大千軒に。もしかして、九州か四国の信者が、ふるさとなつかしくその根を持って来たのではないかと思った。