|斜里《しやり》岳に病気のなおった息子と登った。その前に私は、大雪山の旭岳から中岳を経て裾合平に下ったが、息子は体力に自信がないと、姿見池あたりで待っていた。
前夜、浜小清水のあけぼの旅館に一泊。翌朝は五時の出発で山麓の清岳荘まで。車が朝霧の高原を横切ってゆくとき、前方を茶色の小動物が走り抜け、北狐らしいとのことであった。道はすぐに沢にかかって、入仙洞、羽衣滝、見晴滝、七重滝と次々に|急湍《きゆうたん》、急崖が、白絹の涼しい流れを懸け連ねて私たちを迎える。
この山の岩石は鉄分を多くふくみ、濡れても滑らないから、容易に川の中の石を渉って歩けるのがおもしろいようだ。
しかし息子は片っ方の眼の視力がほとんどないから、遠近の感覚にとぼしい。石の凹凸がわからないので一旦転倒したらあぶない。
とかく日頃は危険に近づかないようにと周りから警告されつけている彼にとって、急湍の中を歩くなどということは生まれてはじめての経験である。腕をとり、腰を支えて沢を詰めていった。
斜里岳は一五四五メートル、千島火山群に属して、成層火山の美しい稜線をもっている。登山道は、西尾根と南尾根を分つ、まっ正面の若い谷をほとんど直線に登るのである。
沢に沿って針葉樹林を抜け、左にダケカンバの緑の中を急登して、雪渓に出てようやく一息。間もなく這松地帯に入って、岩石の露出した急崖を馬の背にむかって息をあえがせあえがせひた登りすることになる。私は息子の下り道が心配で、雪渓のところで休んでいるようにくりかえしたが、大丈夫大丈夫とおぼつかない足どりで、今は一人で石から石をさぐりながら進む。私と息子は一番|殿 《しんがり》になった。息子を見まもりながら、一足進んでは一足休む。石の間に穂になったチングルマやツガザクラやコケモモがある。コケモモはもうびっしりと実をつけている。かねてヒグマの大好物と聞いているので、急に心配になって来た。
馬の背の平坦部から頂きにむかって、ほとんど直角の登りになる。息子はとにかくどうしても馬の背までゆきたいという。
頂きの方から子供たちのかん高い声々が小鳥の|囀《さえず》りのように賑やかに聞えて来た。麓の小学生たちが上っていたのだ。何となく安心して、ではお母さんはちょっと頂上までいって来てすぐ下りてくるからと、二人して、馬の背の標識のところに立った。前方にうっすらと海が青く光り、更に大きな島かげが横たわっている。
オホーツク海だ。あれは|国後《くなしり》だ。思わず叫ぶと、息子は見える方の眼をこらして、それが見たかったのだ、ここまで登れば見えるかと思ったのだ、とうれしそうであった。
頂上への道は、かつての爆裂火口の縁を辿るのであろうか。一方は眼もくらむような急角度で谷底にむかい、ようやく片手を山腹に支え支え登る。日当りのよい潅木地帯で、エゾグンナイフウロやイワオウギやエゾヨツバシオガマがさかんないろどりを見せている。下草にはウラシマツツジの赤い花が散りかけ、実になっているのもあって、葉がもう北国の、早い秋のいろに変っている。小学生たちの一群れが元気よく、ボールがころがってゆくような、はずんだ足どりで下りていった。息子にオーイと声をかける。オーイと返事がくる。
頂きで海はいよいよひろくなり、島かげはいよいよ大きくなった。薄紅のタカネナデシコが海に向かって群生していて、あの島は日本の島、このナデシコはヤマトナデシコだよと叫びたくなった。
下りると馬の背に待っていた息子がにこにこしていて、女の子の一人が、アメをくれたと言う。一人でさびしいでしょうと言ったという。
帰りは沢の南の尾根筋をまわったが、コケモモの大群落でいよいよヒグマがこわかった。案内の清里町役場の宮本氏、太田氏は共々にヒグマは出ませんと言われたが、清岳荘に着いてはじめて、実はあの道はクマミノ峠というのですと教えてくれた。
前夜、浜小清水のあけぼの旅館に一泊。翌朝は五時の出発で山麓の清岳荘まで。車が朝霧の高原を横切ってゆくとき、前方を茶色の小動物が走り抜け、北狐らしいとのことであった。道はすぐに沢にかかって、入仙洞、羽衣滝、見晴滝、七重滝と次々に|急湍《きゆうたん》、急崖が、白絹の涼しい流れを懸け連ねて私たちを迎える。
この山の岩石は鉄分を多くふくみ、濡れても滑らないから、容易に川の中の石を渉って歩けるのがおもしろいようだ。
しかし息子は片っ方の眼の視力がほとんどないから、遠近の感覚にとぼしい。石の凹凸がわからないので一旦転倒したらあぶない。
とかく日頃は危険に近づかないようにと周りから警告されつけている彼にとって、急湍の中を歩くなどということは生まれてはじめての経験である。腕をとり、腰を支えて沢を詰めていった。
斜里岳は一五四五メートル、千島火山群に属して、成層火山の美しい稜線をもっている。登山道は、西尾根と南尾根を分つ、まっ正面の若い谷をほとんど直線に登るのである。
沢に沿って針葉樹林を抜け、左にダケカンバの緑の中を急登して、雪渓に出てようやく一息。間もなく這松地帯に入って、岩石の露出した急崖を馬の背にむかって息をあえがせあえがせひた登りすることになる。私は息子の下り道が心配で、雪渓のところで休んでいるようにくりかえしたが、大丈夫大丈夫とおぼつかない足どりで、今は一人で石から石をさぐりながら進む。私と息子は一番|殿 《しんがり》になった。息子を見まもりながら、一足進んでは一足休む。石の間に穂になったチングルマやツガザクラやコケモモがある。コケモモはもうびっしりと実をつけている。かねてヒグマの大好物と聞いているので、急に心配になって来た。
馬の背の平坦部から頂きにむかって、ほとんど直角の登りになる。息子はとにかくどうしても馬の背までゆきたいという。
頂きの方から子供たちのかん高い声々が小鳥の|囀《さえず》りのように賑やかに聞えて来た。麓の小学生たちが上っていたのだ。何となく安心して、ではお母さんはちょっと頂上までいって来てすぐ下りてくるからと、二人して、馬の背の標識のところに立った。前方にうっすらと海が青く光り、更に大きな島かげが横たわっている。
オホーツク海だ。あれは|国後《くなしり》だ。思わず叫ぶと、息子は見える方の眼をこらして、それが見たかったのだ、ここまで登れば見えるかと思ったのだ、とうれしそうであった。
頂上への道は、かつての爆裂火口の縁を辿るのであろうか。一方は眼もくらむような急角度で谷底にむかい、ようやく片手を山腹に支え支え登る。日当りのよい潅木地帯で、エゾグンナイフウロやイワオウギやエゾヨツバシオガマがさかんないろどりを見せている。下草にはウラシマツツジの赤い花が散りかけ、実になっているのもあって、葉がもう北国の、早い秋のいろに変っている。小学生たちの一群れが元気よく、ボールがころがってゆくような、はずんだ足どりで下りていった。息子にオーイと声をかける。オーイと返事がくる。
頂きで海はいよいよひろくなり、島かげはいよいよ大きくなった。薄紅のタカネナデシコが海に向かって群生していて、あの島は日本の島、このナデシコはヤマトナデシコだよと叫びたくなった。
下りると馬の背に待っていた息子がにこにこしていて、女の子の一人が、アメをくれたと言う。一人でさびしいでしょうと言ったという。
帰りは沢の南の尾根筋をまわったが、コケモモの大群落でいよいよヒグマがこわかった。案内の清里町役場の宮本氏、太田氏は共々にヒグマは出ませんと言われたが、清岳荘に着いてはじめて、実はあの道はクマミノ峠というのですと教えてくれた。