北海道のアポイ岳には花がいっぱいあるという。
いつからそれを胸にとどめたであろうか。駅の広告写真にもあったと思う。風光の美しさや祭りを宣伝するのは珍らしくないが、全山の草花をうたいあげているのは、ここだけではないだろうか。
南にのびた日高山脈が、|襟裳岬《えりもみさき》で太平洋に沈みこもうとする直前に、辛うじて一息入れてふみとどまった形で、東にも西にも海をしたがえてそびえたったのがアポイ岳である。
山麓の|様似《さまに》の町での用をすませ、いつもの山仲間と登ることにした。その前日は富良野岳に登って快晴であったのに、様似の町で一泊のあくる朝は雨。しかし余分の日数はなく、真夏なら雨中でも凍えることはないであろうし、大嫌いな蛇もヒグマも雨を避けて穴にこもっているにちがいない。お目当ては花だからと勇躍して、同勢二十人とバスで登山口まで。
八月の夏の雨は北海道でもそう冷たくなく、カシワやミズナラ、ダケカンバ、シナノキ、アイダモ、ノリウツギなどの林の間を進む。海抜八一一メートル、ゆっくりと四時間の予定である。林は登りにかかってエゾマツ、トドマツの針葉樹林になり、林床にエゾシロバナシモツケやムラサキシキブ、ツルシキミ、ミヤマホツツジ、オオバスノキ、アカミノイヌツゲ、コヨウラクツツジなど、北海道で見馴れた潅木や花を見出す。南面した山腹にはミヤマエンレイソウ、ヒダカトリカブト、ヒロハヘビノボラズ、マルバシモツケ、イソツツジ、コバノイチヤクソウ、エゾミヤマハンショウヅル、エゾノハクサンボウフウ、エゾノサワアザミ、クルマユリ、エゾスカシユリ、オオシュロソウ、ヨツバシオガマ、ツバメオモトなどがあって、さすがに次々と新らしい花を見せてくれる。殊にヒオウギアヤメがあちらこちらに濃い紫のいろどりを添えて、あたりの風景を引きしめていた。アヤメの類は湿原に咲くものとばかり思っていたのに、急坂の山腹に咲いているのが珍らしかった。
しかしこのあたりまでは今までに方々の山で知っている花ばかりであった。
標高五百メートルの看視小屋をすぎて、這松地帯を頂上にむかって、馬の背という稜線を歩く頃から、赤茶けた岩石の露出が目立ち、岩の間を縫って先ず黄のエゾコウゾリナの大群生があらわれて来た。普通のコウゾリナよりずっと背が低い。岩かげを好んでアポイゼキショウの白く清楚な花も咲いている。いつか礼文島で見たチシマゼキショウは薄紅で、これよりは背が低いようであった。高度を増すにつれて岩が多くなり、道がガラガラになって、アポイアズマギクが礫の間に純白の花を見せている。普通のアズマギクより葉の幅が狭い。コウゾリナについでたくさんあったのはエゾルリムラサキであった。軽井沢の林の中でもこれに似たルリソウを見つけることができるけれど、それよりもはるかに花が大きく葉が小さくて、茶褐色の岩石の原を薄紫いろに染めている。ヤハズハハコに似たアポイハハコもあった。アポイと特に名をつけられているのは、少しずつ形もいろも変っているからであろう。気候条件によるのか地質の関係であろうか。この山の主体をなしているのはカンラン岩である。
こんなところにと思うようにイブキジャコウソウも薄紅いろの花を咲かせていて、これも他の山で見つけたのより花が大きい。
ほかにイワオトギリソウに似て、もっと花が大きく葉の緑のいろのうすいサマニオトギリ、ナガハノキタアザミに似て、葉が細く花茎の長いヒダカトウヒレンなど、まさに百花繚乱のお花畑で、そのあたりは馬の背のお花畑として知られているところであった。
仕合わせなことに風がなくて七百メートルの稜線に雨はまっすぐ降りおちてくる。晴れていれば、前方に日高連峰を、右と左に太平洋を眺めやるはずの道が、霧がかかって視界五十メートル。花々は雨にぬれていろあざやかに浮び上っていたが、頂上を目ざして足を急がせる道のかたわらに、ふと薄紅のマンテマの一群れを見出した。ナデシコ科のこの花は、私の好きな花の一つで、礼文島では民家の庭先で白いのを見つけた。五弁の花びらを支える筒形の|萼《がく》の形が何とも好ましい。
数年前にイベリア半島のサンチャゴ、デ・コンポスティラにゆき、宿舎から聖堂を通う野の道でやはり白い花のを見つけて写生し、種子となった一本をとってスケッチブックにはさんで来た。別に種子を密輸するという大それたことではなくて、秋に五、六粒を蒔くと、二、三本の苗が生え、白い花片、薄緑の萼筒の花が咲いて、情熱のスペイン乙女というよりは凡そ純潔の修道女とも言いたい風情であったが、夜盗虫にやられて、一年で絶えてしまった。
マンテマはヨーロッパが原産地であるという。礼文とスペインのマンテマを同種とすれば同じ海に面した土地柄で、長い年月の間にどこかの船について来た種子が日本の島に上陸し、アポイまで南下し、純白が薄紅に染まるまでの交配をくりかえしたのではないだろうか。それとも日本が大陸と地つづきであった頃の名残りか。
一九七九年の夏は、スイスの山々や丘々を歩き、じつにたくさんの、白いマンテマを見た。道ばたに、雑草のように咲いていた。赤いのもあった。
アポイ岳へ来て思ったのは、同種の花が自然の条件によって、ほんのわずかずつ変化してゆくおもしろさである。そのために必要とする気の遠くなるような悠久の時間。その一番はじめのもとにさかのぼれば生命そのものの発祥があるだろう。何故ひとは地上に生まれて来たのか。いつもいつも頭を去らないその問いが、アポイ岳の花々を眺めながらも新らしく胸をつきあげてくる。
いつからそれを胸にとどめたであろうか。駅の広告写真にもあったと思う。風光の美しさや祭りを宣伝するのは珍らしくないが、全山の草花をうたいあげているのは、ここだけではないだろうか。
南にのびた日高山脈が、|襟裳岬《えりもみさき》で太平洋に沈みこもうとする直前に、辛うじて一息入れてふみとどまった形で、東にも西にも海をしたがえてそびえたったのがアポイ岳である。
山麓の|様似《さまに》の町での用をすませ、いつもの山仲間と登ることにした。その前日は富良野岳に登って快晴であったのに、様似の町で一泊のあくる朝は雨。しかし余分の日数はなく、真夏なら雨中でも凍えることはないであろうし、大嫌いな蛇もヒグマも雨を避けて穴にこもっているにちがいない。お目当ては花だからと勇躍して、同勢二十人とバスで登山口まで。
八月の夏の雨は北海道でもそう冷たくなく、カシワやミズナラ、ダケカンバ、シナノキ、アイダモ、ノリウツギなどの林の間を進む。海抜八一一メートル、ゆっくりと四時間の予定である。林は登りにかかってエゾマツ、トドマツの針葉樹林になり、林床にエゾシロバナシモツケやムラサキシキブ、ツルシキミ、ミヤマホツツジ、オオバスノキ、アカミノイヌツゲ、コヨウラクツツジなど、北海道で見馴れた潅木や花を見出す。南面した山腹にはミヤマエンレイソウ、ヒダカトリカブト、ヒロハヘビノボラズ、マルバシモツケ、イソツツジ、コバノイチヤクソウ、エゾミヤマハンショウヅル、エゾノハクサンボウフウ、エゾノサワアザミ、クルマユリ、エゾスカシユリ、オオシュロソウ、ヨツバシオガマ、ツバメオモトなどがあって、さすがに次々と新らしい花を見せてくれる。殊にヒオウギアヤメがあちらこちらに濃い紫のいろどりを添えて、あたりの風景を引きしめていた。アヤメの類は湿原に咲くものとばかり思っていたのに、急坂の山腹に咲いているのが珍らしかった。
しかしこのあたりまでは今までに方々の山で知っている花ばかりであった。
標高五百メートルの看視小屋をすぎて、這松地帯を頂上にむかって、馬の背という稜線を歩く頃から、赤茶けた岩石の露出が目立ち、岩の間を縫って先ず黄のエゾコウゾリナの大群生があらわれて来た。普通のコウゾリナよりずっと背が低い。岩かげを好んでアポイゼキショウの白く清楚な花も咲いている。いつか礼文島で見たチシマゼキショウは薄紅で、これよりは背が低いようであった。高度を増すにつれて岩が多くなり、道がガラガラになって、アポイアズマギクが礫の間に純白の花を見せている。普通のアズマギクより葉の幅が狭い。コウゾリナについでたくさんあったのはエゾルリムラサキであった。軽井沢の林の中でもこれに似たルリソウを見つけることができるけれど、それよりもはるかに花が大きく葉が小さくて、茶褐色の岩石の原を薄紫いろに染めている。ヤハズハハコに似たアポイハハコもあった。アポイと特に名をつけられているのは、少しずつ形もいろも変っているからであろう。気候条件によるのか地質の関係であろうか。この山の主体をなしているのはカンラン岩である。
こんなところにと思うようにイブキジャコウソウも薄紅いろの花を咲かせていて、これも他の山で見つけたのより花が大きい。
ほかにイワオトギリソウに似て、もっと花が大きく葉の緑のいろのうすいサマニオトギリ、ナガハノキタアザミに似て、葉が細く花茎の長いヒダカトウヒレンなど、まさに百花繚乱のお花畑で、そのあたりは馬の背のお花畑として知られているところであった。
仕合わせなことに風がなくて七百メートルの稜線に雨はまっすぐ降りおちてくる。晴れていれば、前方に日高連峰を、右と左に太平洋を眺めやるはずの道が、霧がかかって視界五十メートル。花々は雨にぬれていろあざやかに浮び上っていたが、頂上を目ざして足を急がせる道のかたわらに、ふと薄紅のマンテマの一群れを見出した。ナデシコ科のこの花は、私の好きな花の一つで、礼文島では民家の庭先で白いのを見つけた。五弁の花びらを支える筒形の|萼《がく》の形が何とも好ましい。
数年前にイベリア半島のサンチャゴ、デ・コンポスティラにゆき、宿舎から聖堂を通う野の道でやはり白い花のを見つけて写生し、種子となった一本をとってスケッチブックにはさんで来た。別に種子を密輸するという大それたことではなくて、秋に五、六粒を蒔くと、二、三本の苗が生え、白い花片、薄緑の萼筒の花が咲いて、情熱のスペイン乙女というよりは凡そ純潔の修道女とも言いたい風情であったが、夜盗虫にやられて、一年で絶えてしまった。
マンテマはヨーロッパが原産地であるという。礼文とスペインのマンテマを同種とすれば同じ海に面した土地柄で、長い年月の間にどこかの船について来た種子が日本の島に上陸し、アポイまで南下し、純白が薄紅に染まるまでの交配をくりかえしたのではないだろうか。それとも日本が大陸と地つづきであった頃の名残りか。
一九七九年の夏は、スイスの山々や丘々を歩き、じつにたくさんの、白いマンテマを見た。道ばたに、雑草のように咲いていた。赤いのもあった。
アポイ岳へ来て思ったのは、同種の花が自然の条件によって、ほんのわずかずつ変化してゆくおもしろさである。そのために必要とする気の遠くなるような悠久の時間。その一番はじめのもとにさかのぼれば生命そのものの発祥があるだろう。何故ひとは地上に生まれて来たのか。いつもいつも頭を去らないその問いが、アポイ岳の花々を眺めながらも新らしく胸をつきあげてくる。