北海道の山も、かれこれ、二十近く登ったろうか。
そのはじめのきっかけは、上川盆地の|富良野《ふらの》という町に来て、松浦武四郎顕彰碑のところから富良野岳を近々と眺め、その一方に鋭く切れこみ、一方に長々と裾野をひいた形に魅入られてからである。
松浦武四郎は三重県の伊勢参宮のための街道筋の旧家に生まれて、一八四五年、三十八歳で|蝦夷《えぞ》地にわたった。幕末の動乱期、諸外国が日本の開港をさかんに迫っている頃であったから、客気に溢れた青年の眼はおのずから、海の彼方に注がれたのであろう。しかし海外への脱出の不可能な時代である。
せめてもと、少しでも海をわたる蝦夷地をえらんだのではないだろうか。五十二歳で、明治新政府の開拓判官になった。六回に及ぶ蝦夷地の内陸探険の実績が高く評価されたのであろうが、役人生活が窮屈であったらしく、五十三歳の時には自由人となって、又、旅から旅、山から山の生活にもどった。
老いぬればまた来ん年を頼まれず
|花咲《はなさき》にけりいざ門出せん
とは身につまされる歌である。来年のいのちはわからないから、今年の花は今年のうちに見て来ようという。蝦夷地に北海道という名をつけたのは松浦武四郎である。親しい友人たちを多く安政大獄に失い、六十八歳以後に、大台ヶ原に四回も登っている。『日本史探訪』の中に、伯母峯峠の南の山の中腹で、夜中に、|松明《たいまつ》の光にマンサクの花を見出し、蝦夷地の山中にもあったマンサクが、ここにもあったかと木の幹に頬ずりして涙をこぼしたという話がのっている。七十歳も間近いひとの情感の、何とみずみずしいことか。
松浦武四郎も仰いだ富良野岳に是非登りたいと思いながら、実際には、大雪山を中心に何度も北海道の山々を歩いてから、この山を訪ねたのである。千二百メートル地点の十勝岳温泉まで車が入る。一九一二メートルの頂上まで、標高差七百、その前にもっときびしいところへいってしまおうと思っていた。山を甘く見た報いは早速あらわれて、富良野岳とアポイ岳を、その年の北海道の山ゆきにきめて東京をたつ二、三日前、おなかをこわして、三日間絶食した。のどを通るのは、うすくといた葛湯ばかり。羽田をたつときは、真夏の炎天にたちくらみするからだで、千歳までの飛行機の中でも、気息えんえんと眼をとじていた。
それでも千歳についたらすぐに、喜茂別という町で話をしなければならなかった。どうやら無事にすませて滝本幸夫さんや中川泰助さんに迎えられて十勝岳温泉まで。
かなり急勾配の樹林帯を登る車の両側には、オニシモツケソウの群落があり、その下にオオバミゾホオズキや、イワイチョウの花などを見出して、やっぱり麓で寝ていないで来てよかったと思い、せめて十勝岳の噴煙をまっ正面に見る旅館までもと思い、一夜明けて七時、依然として絶食してアメ玉だけを口に入れながら、とにかくゆけるところまでと、ひとびとの一番あとから、そろりそろりと歩いた。前方に安政の噴火口が、大地を真二つに引き裂いて赤茶けた谷肌を見せている。
十勝岳はその左肩の上にそびえて、紫紺にしずまりかえり、新噴火口からの噴煙が薄絹の幕を張ったように浮んでいる。やがて道は谷をわたって、十勝岳、上ホロカメットク山、三峯山につづく尾根筋に平行してジグザグの登りをつづける。一足いっては立ちどまり、二足いっては腰を下し、道ばたのタケシマランやゴゼンタチバナがもう赤い実になっているのを見ながら、北国の夏の早く過ぎてゆくことを思った。ひとびとは案内の滝本幸夫さんを先頭にずっと前をゆき、中川泰助さんがゆっくりとついて来て下さった。中川さんの令弟は北大卒業を目前にした昭和四十年三月、中部日高のカムイエクウチカウシ山で、六人の岳友と共に、雪崩によって青春の命を失われたという。
千七百メートルのコルに辿りついて、自分の今日の体力はここまでと草の上に仰むきにねていると、滝本さんがもどって来て、あと十分、十五分、登れとはげます。その熱心さに引きずられて、重い足を五分、十分と引きあげていった。稜線に辿りつくと富良野岳の頂きからまっすぐに下降する山腹一面が、ハクサンイチゲの大群落で被われ、十勝連峰の重なりあう紫紺の峰々を背景に、いろもあざやかな純白に咲きさかっている。この花のゆたかさを松浦武四郎も見たであろうかと思い、もしそうであれば、伊勢の狭い谷々にはない眺めは、どんなに大きなおどろきであったろうかと思った。
そのはじめのきっかけは、上川盆地の|富良野《ふらの》という町に来て、松浦武四郎顕彰碑のところから富良野岳を近々と眺め、その一方に鋭く切れこみ、一方に長々と裾野をひいた形に魅入られてからである。
松浦武四郎は三重県の伊勢参宮のための街道筋の旧家に生まれて、一八四五年、三十八歳で|蝦夷《えぞ》地にわたった。幕末の動乱期、諸外国が日本の開港をさかんに迫っている頃であったから、客気に溢れた青年の眼はおのずから、海の彼方に注がれたのであろう。しかし海外への脱出の不可能な時代である。
せめてもと、少しでも海をわたる蝦夷地をえらんだのではないだろうか。五十二歳で、明治新政府の開拓判官になった。六回に及ぶ蝦夷地の内陸探険の実績が高く評価されたのであろうが、役人生活が窮屈であったらしく、五十三歳の時には自由人となって、又、旅から旅、山から山の生活にもどった。
老いぬればまた来ん年を頼まれず
|花咲《はなさき》にけりいざ門出せん
とは身につまされる歌である。来年のいのちはわからないから、今年の花は今年のうちに見て来ようという。蝦夷地に北海道という名をつけたのは松浦武四郎である。親しい友人たちを多く安政大獄に失い、六十八歳以後に、大台ヶ原に四回も登っている。『日本史探訪』の中に、伯母峯峠の南の山の中腹で、夜中に、|松明《たいまつ》の光にマンサクの花を見出し、蝦夷地の山中にもあったマンサクが、ここにもあったかと木の幹に頬ずりして涙をこぼしたという話がのっている。七十歳も間近いひとの情感の、何とみずみずしいことか。
松浦武四郎も仰いだ富良野岳に是非登りたいと思いながら、実際には、大雪山を中心に何度も北海道の山々を歩いてから、この山を訪ねたのである。千二百メートル地点の十勝岳温泉まで車が入る。一九一二メートルの頂上まで、標高差七百、その前にもっときびしいところへいってしまおうと思っていた。山を甘く見た報いは早速あらわれて、富良野岳とアポイ岳を、その年の北海道の山ゆきにきめて東京をたつ二、三日前、おなかをこわして、三日間絶食した。のどを通るのは、うすくといた葛湯ばかり。羽田をたつときは、真夏の炎天にたちくらみするからだで、千歳までの飛行機の中でも、気息えんえんと眼をとじていた。
それでも千歳についたらすぐに、喜茂別という町で話をしなければならなかった。どうやら無事にすませて滝本幸夫さんや中川泰助さんに迎えられて十勝岳温泉まで。
かなり急勾配の樹林帯を登る車の両側には、オニシモツケソウの群落があり、その下にオオバミゾホオズキや、イワイチョウの花などを見出して、やっぱり麓で寝ていないで来てよかったと思い、せめて十勝岳の噴煙をまっ正面に見る旅館までもと思い、一夜明けて七時、依然として絶食してアメ玉だけを口に入れながら、とにかくゆけるところまでと、ひとびとの一番あとから、そろりそろりと歩いた。前方に安政の噴火口が、大地を真二つに引き裂いて赤茶けた谷肌を見せている。
十勝岳はその左肩の上にそびえて、紫紺にしずまりかえり、新噴火口からの噴煙が薄絹の幕を張ったように浮んでいる。やがて道は谷をわたって、十勝岳、上ホロカメットク山、三峯山につづく尾根筋に平行してジグザグの登りをつづける。一足いっては立ちどまり、二足いっては腰を下し、道ばたのタケシマランやゴゼンタチバナがもう赤い実になっているのを見ながら、北国の夏の早く過ぎてゆくことを思った。ひとびとは案内の滝本幸夫さんを先頭にずっと前をゆき、中川泰助さんがゆっくりとついて来て下さった。中川さんの令弟は北大卒業を目前にした昭和四十年三月、中部日高のカムイエクウチカウシ山で、六人の岳友と共に、雪崩によって青春の命を失われたという。
千七百メートルのコルに辿りついて、自分の今日の体力はここまでと草の上に仰むきにねていると、滝本さんがもどって来て、あと十分、十五分、登れとはげます。その熱心さに引きずられて、重い足を五分、十分と引きあげていった。稜線に辿りつくと富良野岳の頂きからまっすぐに下降する山腹一面が、ハクサンイチゲの大群落で被われ、十勝連峰の重なりあう紫紺の峰々を背景に、いろもあざやかな純白に咲きさかっている。この花のゆたかさを松浦武四郎も見たであろうかと思い、もしそうであれば、伊勢の狭い谷々にはない眺めは、どんなに大きなおどろきであったろうかと思った。