自分のふるさとの東京以外に、どこに住みたいかと問われれば、いくらヒグマがこわくても、やはり北海道と答えたくなる。自然が一番残っているからである。
野の花、山の花に心をよせるのも、道ばたのどんな小さな、それがたとえ雑草と名づけられるものであっても、自然の摂理、秩序そのままのおごそかさを形にあらわしていることを改めて教えてくれる。
私はしばしば語るように、中仙道の宿場町に生まれ育っている。関東平野を西北に横切る街道は、碓氷峠から信州の山路に入るのだが、そこにはどんな花々が咲くのであろうと、浅間高原の写真をなつかしく見入った。宿場町の、人家の群れは|石神井《しやくじい》川と|谷端《やばた》川にきざまれた谷を両側に持つ、武蔵野台地の広い尾根のような地形に発達した。
子供の頃に待たれた春は、オオイヌノフグリのルリいろの花や、スミレ、レンゲ、タンポポの紫や赤や黄にいろどられ、ハハコグサやスズメノヒエやコヌカグサ、コバンソウ、スズメノテッポウなどが、ままごとあそびの材料になってくれた。夏になれば茂りあうチカラシバは穂を結んで、友だちが知らずに足をつっかけてころぶのをよろこぶいたずらを教え、ノカンゾウやフシグロセンノウやツルボやギボウシやミゾソバやオオイヌタデはその花の美しさから、家にもって帰って仏さまに供える心を養い、秋は野に川のほとりに、一面の穂ススキが風にゆれて、子供ごころに何となくさびしいと感じたりした。その根もとには時にナンバンギセルが濃い紅紫の花をのぞかせていた。
あれらの花たちはどこにいったか。私の思い出の中に東京の町々は花いっぱいの美しさを保っていて、その花と共に、若くみずみずしいいのちがいつも心によみがえってくるようだ。
札幌の植物園にはじめていった時、ハルニレの大木やウバユリの大群落を見て、原始の頃がしのばれた。
知事公館の庭つづきに、そのとき道警本部長であった枡谷広さんの官舎があり、夫人の文子さんは山仲間であったので、春の一日、今は水が涸れたけれど、豊平川の支流が横切っていた公館の広大な庭を散歩したことがある。エゾエンゴサクの紫のかわいい花を見つけたのがはじめのおどろきで、マイヅルソウ、アズマイチゲ、ユキザサ、ホウチャクソウ、コンロンソウ、レンプクソウ、エンレイソウなどをオンコやシナノキの根もとや芝生の中に見つけた。この庭園は札幌原始林の一部であったことを知り、かつまた、開拓されて百年の月日がたっているのに、札幌のような大都市にそれらの花々がなお残っていることに感激した。夫人の語られるには、まだ川に水量の豊富であった戦前は、石狩川から鮭が上って来たことがあると、近くの七十年輩のひとが告げてくれたとのことである。
しかしこの庭の野の草、山の草も、転勤されたあとに、除草剤で死滅し、見わたす限りの芝生になってしまったとはかえすがえすも残念至極なことである。
|空沼《そらぬま》岳には、夏もおそいある日、札幌で一日の時間の浮いた私を、滝本幸夫さんと鈴木和夫さんが案内してくれた。
札幌という町の羨ましさは、すぐ近くにエゾカワラナデシコやハマナスの大群落のある石狩の浜や、野幌森林公園を持っていることである。
藻岩山や|手稲《ていね》山には今、リフトや車で容易にその中腹から頂上へと足を進めることができるけれど、昭和の初期に、北大の学生であった亡兄は、スキーをかついで懸命の登山を試み、おそろしい雪崩にあって命からがらの思いもしたようである。前にも書いたけれど、滝本さんの『北の山』には、その頃、冬の手稲にゆくことは、今ヒマラヤに入る位に大変なことであったろうと書かれていた。そしてこれらの山たちは、たとえ乗りもので簡単に登れるようであっても、密生するクマザサや、からみあい茂りあうノブドウの葉の群れに、いつヒグマがあらわれても不思議でないような景観を残している。
空沼岳は定山渓の南、豊平川や|薄別《うすべつ》川の谷をへだてて、中山峠から無意根、喜茂別の山なみと相対して札幌岳と尾根を連ねている。
その日は日曜日であったので、豊平川をさかのぼって車を乗り捨てた登山口には、数台の車が並んでいたが、やはり、リフトなど設置しない山はありがたく、空沼小屋にむかう道の原生林の中には、コバノイチヤクソウ、ジガバチソウ、シロバナノエンレイソウ、シュロソウ、オオユキザサ、タケシマラン、ウバユリ、サワヒヨドリ、ヤチアザミ、ツリガネニンジンと早くも山の草が賑やかに出迎えてくれ、殊に多く目立ったのがオクトリカブトである。葉にも根にも猛毒を持つこの草は、かつて、アイヌの人たちが狩猟するのに欠かせぬ武器をつくった。
北海道開拓の歴史は狩猟民族の天国を、農耕民族にふさわしくつくりかえるための悪戦苦闘の積み重ねなのであった。今、トリカブトの花が札幌近郊の山で紫に咲きさかっているというのは、北海道自身にとって、どういう意味をもつのか。だれが北海道に住もうと、もうこの花をとる必要のない時代にあるということか。
かつての火口であったろうか。上の沼、下の沼、共にそのほとりは子供づれのハイカーで賑わっていたが、ニレやブナやシナノキやオンコの多い原生林の深さはなお太古の面影を残し、札幌の子供たちは、この山に来て、自然とたたかい抜いて来た人間の苦しみの日々を学ぶ機会にふれることができるのだと思い、砂漠のような東京に住む子供たちが哀れだった。
野の花、山の花に心をよせるのも、道ばたのどんな小さな、それがたとえ雑草と名づけられるものであっても、自然の摂理、秩序そのままのおごそかさを形にあらわしていることを改めて教えてくれる。
私はしばしば語るように、中仙道の宿場町に生まれ育っている。関東平野を西北に横切る街道は、碓氷峠から信州の山路に入るのだが、そこにはどんな花々が咲くのであろうと、浅間高原の写真をなつかしく見入った。宿場町の、人家の群れは|石神井《しやくじい》川と|谷端《やばた》川にきざまれた谷を両側に持つ、武蔵野台地の広い尾根のような地形に発達した。
子供の頃に待たれた春は、オオイヌノフグリのルリいろの花や、スミレ、レンゲ、タンポポの紫や赤や黄にいろどられ、ハハコグサやスズメノヒエやコヌカグサ、コバンソウ、スズメノテッポウなどが、ままごとあそびの材料になってくれた。夏になれば茂りあうチカラシバは穂を結んで、友だちが知らずに足をつっかけてころぶのをよろこぶいたずらを教え、ノカンゾウやフシグロセンノウやツルボやギボウシやミゾソバやオオイヌタデはその花の美しさから、家にもって帰って仏さまに供える心を養い、秋は野に川のほとりに、一面の穂ススキが風にゆれて、子供ごころに何となくさびしいと感じたりした。その根もとには時にナンバンギセルが濃い紅紫の花をのぞかせていた。
あれらの花たちはどこにいったか。私の思い出の中に東京の町々は花いっぱいの美しさを保っていて、その花と共に、若くみずみずしいいのちがいつも心によみがえってくるようだ。
札幌の植物園にはじめていった時、ハルニレの大木やウバユリの大群落を見て、原始の頃がしのばれた。
知事公館の庭つづきに、そのとき道警本部長であった枡谷広さんの官舎があり、夫人の文子さんは山仲間であったので、春の一日、今は水が涸れたけれど、豊平川の支流が横切っていた公館の広大な庭を散歩したことがある。エゾエンゴサクの紫のかわいい花を見つけたのがはじめのおどろきで、マイヅルソウ、アズマイチゲ、ユキザサ、ホウチャクソウ、コンロンソウ、レンプクソウ、エンレイソウなどをオンコやシナノキの根もとや芝生の中に見つけた。この庭園は札幌原始林の一部であったことを知り、かつまた、開拓されて百年の月日がたっているのに、札幌のような大都市にそれらの花々がなお残っていることに感激した。夫人の語られるには、まだ川に水量の豊富であった戦前は、石狩川から鮭が上って来たことがあると、近くの七十年輩のひとが告げてくれたとのことである。
しかしこの庭の野の草、山の草も、転勤されたあとに、除草剤で死滅し、見わたす限りの芝生になってしまったとはかえすがえすも残念至極なことである。
|空沼《そらぬま》岳には、夏もおそいある日、札幌で一日の時間の浮いた私を、滝本幸夫さんと鈴木和夫さんが案内してくれた。
札幌という町の羨ましさは、すぐ近くにエゾカワラナデシコやハマナスの大群落のある石狩の浜や、野幌森林公園を持っていることである。
藻岩山や|手稲《ていね》山には今、リフトや車で容易にその中腹から頂上へと足を進めることができるけれど、昭和の初期に、北大の学生であった亡兄は、スキーをかついで懸命の登山を試み、おそろしい雪崩にあって命からがらの思いもしたようである。前にも書いたけれど、滝本さんの『北の山』には、その頃、冬の手稲にゆくことは、今ヒマラヤに入る位に大変なことであったろうと書かれていた。そしてこれらの山たちは、たとえ乗りもので簡単に登れるようであっても、密生するクマザサや、からみあい茂りあうノブドウの葉の群れに、いつヒグマがあらわれても不思議でないような景観を残している。
空沼岳は定山渓の南、豊平川や|薄別《うすべつ》川の谷をへだてて、中山峠から無意根、喜茂別の山なみと相対して札幌岳と尾根を連ねている。
その日は日曜日であったので、豊平川をさかのぼって車を乗り捨てた登山口には、数台の車が並んでいたが、やはり、リフトなど設置しない山はありがたく、空沼小屋にむかう道の原生林の中には、コバノイチヤクソウ、ジガバチソウ、シロバナノエンレイソウ、シュロソウ、オオユキザサ、タケシマラン、ウバユリ、サワヒヨドリ、ヤチアザミ、ツリガネニンジンと早くも山の草が賑やかに出迎えてくれ、殊に多く目立ったのがオクトリカブトである。葉にも根にも猛毒を持つこの草は、かつて、アイヌの人たちが狩猟するのに欠かせぬ武器をつくった。
北海道開拓の歴史は狩猟民族の天国を、農耕民族にふさわしくつくりかえるための悪戦苦闘の積み重ねなのであった。今、トリカブトの花が札幌近郊の山で紫に咲きさかっているというのは、北海道自身にとって、どういう意味をもつのか。だれが北海道に住もうと、もうこの花をとる必要のない時代にあるということか。
かつての火口であったろうか。上の沼、下の沼、共にそのほとりは子供づれのハイカーで賑わっていたが、ニレやブナやシナノキやオンコの多い原生林の深さはなお太古の面影を残し、札幌の子供たちは、この山に来て、自然とたたかい抜いて来た人間の苦しみの日々を学ぶ機会にふれることができるのだと思い、砂漠のような東京に住む子供たちが哀れだった。