中央高速を河口湖にむかってゆくとき、いつも|雁腹摺《がんがはらすり》山の名に心をひかれる。大菩薩の南にもあり、トンネルで通ってしまう笹子の上にもある。
雁がすれすれに飛んでゆくというのは、山が高いということなのか、低いということか。大菩薩から西北の秩父最奥の山々、|甲武信《こぶし》や|国師《こくし》への入口には|雁坂《かりさか》峠がある。雁もここで一休みするという意味か。
雁の腹見すかす空や船の上
[#地付き]其角 <t-left>
紀の路にも下りず夜を行く雁ひとつ
[#地付き]蕪村 <t-left>
雨となりぬ雁声昨夜低かりし
[#地付き]子規 <t-left>
母恋ひの若狭は遠し雁の旅
[#地付き]勉 <t-left>
『俳句歳時記』にあげられた雁の句は、昔も今も、ひとびとが、この鳥の音に空を見上げ、あるいは耳をすまし、季節の移り変りに人間の身の移り変りを重ね合せて、何らかの感慨にふけったことがわかる。
子供の頃の秋のわびしさは、夕空をゆき、夜にかけて鳴いて空をわたる雁の声に思い知らされたと思う。鋭く高らかに鳴く声は、同じ渡り鳥の鶴よりも鴨よりも澄んで美しい。鶴腹摺山や鴨坂峠の名をあまり聞いたことがないのは、その声が雁のように、ひとの心に無常を告げるところには至らぬからであろう。
雁坂峠の名は娘の頃から気になっていた。
その奥に東|破風《はふ》、西破風、|木賊《とくさ》、甲武信とつづく二千三、四百メートルの山嶺がつづき、原生林に被われた稜線を辿って二千五百メートルの国師ヶ岳から奥千丈、更に頂上に五丈岩が空にそびえたつ金峰にいって黒森に出る。秩父の栃本から入って、黒岩尾根を経て雁坂峠に。一体幾日の山旅で、それらの原始の森の中に身を沈めることができるのか。
五万分の一の地図を並べ合せて、何度コンパスではかったり、鉛筆で山道をなぞったか知れない。雲取や大菩薩の次に目ざすのはまさに、それらの山旅であったが、母は頑として許さなかった。大正の頃に今の東大教養学部、一高の学生たちが何人も道に迷って死んでいた。同じ小学校の同窓会の先輩も単独行で雁坂峠をすぎたところで死んでいる。
それらの山々の南面した谷には、笛吹川の源流が多くの滝を伴って走り、初夏はシャクナゲの大群落が薄紅に真紅に咲きさかるという。
母は反対したが、兄も弟も、雁坂峠を越えた。私は結婚して三児の母となり、国師ヶ岳の頂きを踏むことができたのは、それから四十年たった、つい数年前である。
雁坂峠は越えなくても、川上牧丘線の林道に車が入って、二千四百メートルの大弛小屋までゆけるようになった。シャクナゲの群生する山道を、ほんの二百メートルも登って、まだ残雪のある頂上に着いた時、北からやって来た若い娘さんの一団があり、雁坂峠から甲武信を越えて三日目に辿り着いたという。「えらいことねえ」と讃嘆しながら、やはりさびしい思いがした。自分にそれだけの体力が残っているかしらと思って。
国師や奥千丈からの水を集めた笛吹川の西沢渓谷も、四十年の月日を経て、塩山からのバスで容易に入れるようになった。
その少し前に、|常陸《ひたち》の花園山にいっていた。山草の宝庫ということでいってみたのだけれど、渓谷のかたわらには、立派な自動車道路ができていて、そのために破壊されたのかどうか、何度も車から下りて、杉木立ちの山腹の中に入ってみたが、杉の落葉の間からは、わずかにミズヒキやヤクシソウなど、里の道ばたに生い出ているような草ばかりが顔を出していた。
西沢渓谷は、さすがに、ずい分幅広い自動車道路がつくられたけれど、バス停から先は、いやでも歩かなければならぬようになっており、二千五百メートル級の奥秩父の山々がひしめいている中をきざんでくる水量も豊富である。
谷にそれほどの高度差がないため、大杉谷のような、滝の眺めの壮観さはないが、シャクナゲはまさに見頃で、薄紅の花々が、谷を薄紅に染めるばかりに咲きさかっていた。
アズマシャクナゲの類であろうか、いつか金峰からの下り道にいっぱい咲いていたのと似ている。
じつは私は、この地味のやせている岩肌を好むというツツジ科のシャクナゲを、ひとがさわぐほどには好まない。花の花弁のいろどりの少さに対して、くろぐろとするばかりの濃緑の葉が茂り、しつこい感じがする。
金峰のシャクナゲが、そうであった。葉が多すぎる。
しかしこの西沢渓谷では、葉を被いつくすばかりにさかんな花のつきようである。谷の両側がそれらの花々にいろどられている姿はすばらしく華麗で、奥秩父といえばどこか暗鬱な印象であるのにまさに花の秩父という言葉をささげたい気がした。クリームいろのヒカゲツツジもいっぱいあった。何よりもうれしかったのは、手もとどかない道ばたの大きな露岩の上に多分クモイコザクラであろう、薄紅の小さな花を見つけたことである。
武甲山にある石灰岩地特有というイワザクラは武甲山ではあえなかったけれど、同じ岩質のここに来て同じ仲間の花をようやく下から見上げることができた。イワザクラにくらべて、クモイコザクラは葉が小さく背も低いが、花はむしろ大きくかたまって咲いていた。
私の子供の頃、赤羽駅から歩いて、荒川の渡しを渡り、浮間ヶ原と名づけられた湿原にゆくと、サクラソウが咲いていた。荒川の氾濫によって、土地が肥沃なので咲くのだという。我が家に持ってきてもよほど肥料を与えなければ咲かなかった。山の、こんな岩の上の土が、どんなに肥えてあのようにきれいに花を咲かせるのかと思う。
雁がすれすれに飛んでゆくというのは、山が高いということなのか、低いということか。大菩薩から西北の秩父最奥の山々、|甲武信《こぶし》や|国師《こくし》への入口には|雁坂《かりさか》峠がある。雁もここで一休みするという意味か。
雁の腹見すかす空や船の上
[#地付き]其角 <t-left>
紀の路にも下りず夜を行く雁ひとつ
[#地付き]蕪村 <t-left>
雨となりぬ雁声昨夜低かりし
[#地付き]子規 <t-left>
母恋ひの若狭は遠し雁の旅
[#地付き]勉 <t-left>
『俳句歳時記』にあげられた雁の句は、昔も今も、ひとびとが、この鳥の音に空を見上げ、あるいは耳をすまし、季節の移り変りに人間の身の移り変りを重ね合せて、何らかの感慨にふけったことがわかる。
子供の頃の秋のわびしさは、夕空をゆき、夜にかけて鳴いて空をわたる雁の声に思い知らされたと思う。鋭く高らかに鳴く声は、同じ渡り鳥の鶴よりも鴨よりも澄んで美しい。鶴腹摺山や鴨坂峠の名をあまり聞いたことがないのは、その声が雁のように、ひとの心に無常を告げるところには至らぬからであろう。
雁坂峠の名は娘の頃から気になっていた。
その奥に東|破風《はふ》、西破風、|木賊《とくさ》、甲武信とつづく二千三、四百メートルの山嶺がつづき、原生林に被われた稜線を辿って二千五百メートルの国師ヶ岳から奥千丈、更に頂上に五丈岩が空にそびえたつ金峰にいって黒森に出る。秩父の栃本から入って、黒岩尾根を経て雁坂峠に。一体幾日の山旅で、それらの原始の森の中に身を沈めることができるのか。
五万分の一の地図を並べ合せて、何度コンパスではかったり、鉛筆で山道をなぞったか知れない。雲取や大菩薩の次に目ざすのはまさに、それらの山旅であったが、母は頑として許さなかった。大正の頃に今の東大教養学部、一高の学生たちが何人も道に迷って死んでいた。同じ小学校の同窓会の先輩も単独行で雁坂峠をすぎたところで死んでいる。
それらの山々の南面した谷には、笛吹川の源流が多くの滝を伴って走り、初夏はシャクナゲの大群落が薄紅に真紅に咲きさかるという。
母は反対したが、兄も弟も、雁坂峠を越えた。私は結婚して三児の母となり、国師ヶ岳の頂きを踏むことができたのは、それから四十年たった、つい数年前である。
雁坂峠は越えなくても、川上牧丘線の林道に車が入って、二千四百メートルの大弛小屋までゆけるようになった。シャクナゲの群生する山道を、ほんの二百メートルも登って、まだ残雪のある頂上に着いた時、北からやって来た若い娘さんの一団があり、雁坂峠から甲武信を越えて三日目に辿り着いたという。「えらいことねえ」と讃嘆しながら、やはりさびしい思いがした。自分にそれだけの体力が残っているかしらと思って。
国師や奥千丈からの水を集めた笛吹川の西沢渓谷も、四十年の月日を経て、塩山からのバスで容易に入れるようになった。
その少し前に、|常陸《ひたち》の花園山にいっていた。山草の宝庫ということでいってみたのだけれど、渓谷のかたわらには、立派な自動車道路ができていて、そのために破壊されたのかどうか、何度も車から下りて、杉木立ちの山腹の中に入ってみたが、杉の落葉の間からは、わずかにミズヒキやヤクシソウなど、里の道ばたに生い出ているような草ばかりが顔を出していた。
西沢渓谷は、さすがに、ずい分幅広い自動車道路がつくられたけれど、バス停から先は、いやでも歩かなければならぬようになっており、二千五百メートル級の奥秩父の山々がひしめいている中をきざんでくる水量も豊富である。
谷にそれほどの高度差がないため、大杉谷のような、滝の眺めの壮観さはないが、シャクナゲはまさに見頃で、薄紅の花々が、谷を薄紅に染めるばかりに咲きさかっていた。
アズマシャクナゲの類であろうか、いつか金峰からの下り道にいっぱい咲いていたのと似ている。
じつは私は、この地味のやせている岩肌を好むというツツジ科のシャクナゲを、ひとがさわぐほどには好まない。花の花弁のいろどりの少さに対して、くろぐろとするばかりの濃緑の葉が茂り、しつこい感じがする。
金峰のシャクナゲが、そうであった。葉が多すぎる。
しかしこの西沢渓谷では、葉を被いつくすばかりにさかんな花のつきようである。谷の両側がそれらの花々にいろどられている姿はすばらしく華麗で、奥秩父といえばどこか暗鬱な印象であるのにまさに花の秩父という言葉をささげたい気がした。クリームいろのヒカゲツツジもいっぱいあった。何よりもうれしかったのは、手もとどかない道ばたの大きな露岩の上に多分クモイコザクラであろう、薄紅の小さな花を見つけたことである。
武甲山にある石灰岩地特有というイワザクラは武甲山ではあえなかったけれど、同じ岩質のここに来て同じ仲間の花をようやく下から見上げることができた。イワザクラにくらべて、クモイコザクラは葉が小さく背も低いが、花はむしろ大きくかたまって咲いていた。
私の子供の頃、赤羽駅から歩いて、荒川の渡しを渡り、浮間ヶ原と名づけられた湿原にゆくと、サクラソウが咲いていた。荒川の氾濫によって、土地が肥沃なので咲くのだという。我が家に持ってきてもよほど肥料を与えなければ咲かなかった。山の、こんな岩の上の土が、どんなに肥えてあのようにきれいに花を咲かせるのかと思う。