|立山《たてやま》の名は、娘の頃に読みはじめた、『万葉集』巻十七にある大伴家持の「立山の賦」の一篇を知って以来忘れ難いものになっていた。
(天|離《さか》る|鄙《ひな》に|名輝《なかか》す|越《こし》の|中《なか》|国内《くぬち》ことごと、山はしも|繁《しし》にあれども、川はしもさはに行けども、|皇神《すめがみ》の|領《うしは》き|在《いま》す、|新川《にひかは》の|其立山《そのたちやま》に、|常夏《とこなつ》に|雪降《ゆきふ》り|頻《し》きて、|帯《お》ばせるかたかひ川の清き瀬に、|朝宵《あさよひ》毎に立つ霧の、思ひ過ぎめや、いや年のはに外のみもふり|離《さ》け見つつ、|万代《よろづよ》の|語《かた》らひぐさと、|未見《いまだみ》ぬ人にも告げむ。音のみも名のみも聞きて、ともしぶるがね。)
この越中には山がたくさんあるけれど、川もいっぱいあるけれど、中でもまるで神の山のような立山は、夏でも雪があってすばらしいし、その麓を流れる片貝川は、朝夕に霧が立って、神の川のように清らかだ。いつも眺めて千年万年ののちまで、この山のよさを語り伝えたいものだ。この山を知らないひとたちが、羨ましがる位評判を立てたいものだ、というような意味であろうか。
大伴家持が、越中守に任ぜられて、現在の高岡市にあった国府にやって来たのは、天平十八年(七四六年)、まだ三十歳にならぬ青年のときであった。翌十九年四月二十七日、この歌はその館でつくられたが、天平勝宝三年(七五一年)に帰京するまで、よく国内を巡行した家持は、新川郡に至って雪に被われた立山の雄姿を仰ぎ、大きな感動にそそられたのであろう。
『万葉集』の中では山部赤人の富士山の大きさを讃えた歌も有名である。しかし家持のおかれた状況を考え合せると、この立山の賦には立山へのおどろきとおそれ以上に、新任地における家持の意気込みがにじみ出ているようで味わい深い。
当時の越中は、都からははるかな|鄙《ひな》の地であった。父の旅人も、少年の家持を連れて、|大宰帥《だざいのそつ》として九州に着任したけれど、遠の御門ともよばれて、大宰府は大陸に近く、新しい文化からの刺激もあったろう。
古代から、武をもって、天皇家をまもる役目をしていた大豪族の嫡男としては、この越中守赴任は、ようやくはびこり出した新興階級の藤原氏による左遷と取られたかも知れない。家持の歌の多くが、壮年期に至るほどに、彼をとりまく政治的な環境の悪化した暗いかげを落していると言われるけれど、この立山の賦をつくった頃は、よしんばそのような周囲への不安があったにしても、それをかき消し、蹴散らすほどの、青年の活気に溢れていたと思う。
私は、この歌の若々しさが好きである。そしてこの憂愁の歌人と言われる家持の眼にきざまれた立山の姿を、いつか必ず眺めたいと思いつづけていた。
日本山岳会の近藤信行さんがまだ『婦人公論』の編集にいて、立山から上高地まで歩く五泊六日の旅を企画して誘ってくれたとき、まさに欣喜雀躍した。まだ四十代の頃である。
残念にもその二、三カ月前から左膝が痛んで水がたまり、医者通いの最中であったが、小さな懐炉を患部に縛りつけ、六月のはじめのある朝、上野から富山へ。ケーブルで美女平に着き、|芦峅寺《あしくらじ》のガイドの志鷹光次郎さんが、他のガイドのひとたちと、また、中部山岳国立公園管理員の沢田栄介さんが出迎えてくれた。
その夜の泊りは地獄谷を下りて、雷鳥沢の雷鳥荘であった。谷から引いて来たゆたかな硫黄泉に、先ず痛む足を浸した。
立山火山の最も新らしい活動を今に残している地獄谷は、径二キロ近い谷全体が咆哮し、轟音を立てて硫気を噴きあげている。何人もの登山者がその硫気を吸い、泥火山の熱い泥の中に落ちて死んだ。立山を舞台にした謡曲「|善知鳥《うとう》」の中では、紅蓮大紅蓮とか、焦熱大焦熱という強烈な漢字を綴って、地獄谷のすさまじい姿をあらわしている。『今昔物語』にも「善知鳥」の猟師と同じように、生前の罪の報いで、立山の地獄谷に落ちて苦しんでいる女の亡霊が出て来て、旅びとに救いを求める話がのっている。
夕暮れ近い谷間は、一面の雪が灰いろに沈んでいて、雷鳥の重苦しい啼き声と共に何か陰惨な感じがしたのは、伝説の持つ暗さのせいであろうか。
あくる朝早く、沢を登り切って、みくりが池のほとりで、雪の間から噴き上ったような、イワイチョウの、鮮烈な緑を見た。まだ蕾も出ていないけれど、その|縁《ふち》に細いギザキザを持った、たくましい葉に、ふと、逆境をはねかえす大伴家持の心意気を見たような気がした。
旧噴火口の一つであるみくりが池には、竜神の怒りにふれて、蛇体に変じて沈んだという坊さんの伝説があるけれど、青年家持が、もしこの山に登っていたら、やっぱりこの池で泳いだにちがいない。しかし、坊さんのように心臓麻痺で死ぬことはなかったろうと思ったりした。
なお、この立山の旅で、足弱の私の杖となって私を助けてくれた志鷹光次郎さんは、昭和四十三年(一九六八年)胃ガンで亡くなられた。まだ六十代の前半であった志鷹さんは元気で、私に、今度は劒岳に登るように、いや必ず登らせてあげますと言ってくれたのだったが。積雪期、厳寒期の劒岳初登頂のかがやかしい記録を持っておられたのに残念この上もないことである。
(天|離《さか》る|鄙《ひな》に|名輝《なかか》す|越《こし》の|中《なか》|国内《くぬち》ことごと、山はしも|繁《しし》にあれども、川はしもさはに行けども、|皇神《すめがみ》の|領《うしは》き|在《いま》す、|新川《にひかは》の|其立山《そのたちやま》に、|常夏《とこなつ》に|雪降《ゆきふ》り|頻《し》きて、|帯《お》ばせるかたかひ川の清き瀬に、|朝宵《あさよひ》毎に立つ霧の、思ひ過ぎめや、いや年のはに外のみもふり|離《さ》け見つつ、|万代《よろづよ》の|語《かた》らひぐさと、|未見《いまだみ》ぬ人にも告げむ。音のみも名のみも聞きて、ともしぶるがね。)
この越中には山がたくさんあるけれど、川もいっぱいあるけれど、中でもまるで神の山のような立山は、夏でも雪があってすばらしいし、その麓を流れる片貝川は、朝夕に霧が立って、神の川のように清らかだ。いつも眺めて千年万年ののちまで、この山のよさを語り伝えたいものだ。この山を知らないひとたちが、羨ましがる位評判を立てたいものだ、というような意味であろうか。
大伴家持が、越中守に任ぜられて、現在の高岡市にあった国府にやって来たのは、天平十八年(七四六年)、まだ三十歳にならぬ青年のときであった。翌十九年四月二十七日、この歌はその館でつくられたが、天平勝宝三年(七五一年)に帰京するまで、よく国内を巡行した家持は、新川郡に至って雪に被われた立山の雄姿を仰ぎ、大きな感動にそそられたのであろう。
『万葉集』の中では山部赤人の富士山の大きさを讃えた歌も有名である。しかし家持のおかれた状況を考え合せると、この立山の賦には立山へのおどろきとおそれ以上に、新任地における家持の意気込みがにじみ出ているようで味わい深い。
当時の越中は、都からははるかな|鄙《ひな》の地であった。父の旅人も、少年の家持を連れて、|大宰帥《だざいのそつ》として九州に着任したけれど、遠の御門ともよばれて、大宰府は大陸に近く、新しい文化からの刺激もあったろう。
古代から、武をもって、天皇家をまもる役目をしていた大豪族の嫡男としては、この越中守赴任は、ようやくはびこり出した新興階級の藤原氏による左遷と取られたかも知れない。家持の歌の多くが、壮年期に至るほどに、彼をとりまく政治的な環境の悪化した暗いかげを落していると言われるけれど、この立山の賦をつくった頃は、よしんばそのような周囲への不安があったにしても、それをかき消し、蹴散らすほどの、青年の活気に溢れていたと思う。
私は、この歌の若々しさが好きである。そしてこの憂愁の歌人と言われる家持の眼にきざまれた立山の姿を、いつか必ず眺めたいと思いつづけていた。
日本山岳会の近藤信行さんがまだ『婦人公論』の編集にいて、立山から上高地まで歩く五泊六日の旅を企画して誘ってくれたとき、まさに欣喜雀躍した。まだ四十代の頃である。
残念にもその二、三カ月前から左膝が痛んで水がたまり、医者通いの最中であったが、小さな懐炉を患部に縛りつけ、六月のはじめのある朝、上野から富山へ。ケーブルで美女平に着き、|芦峅寺《あしくらじ》のガイドの志鷹光次郎さんが、他のガイドのひとたちと、また、中部山岳国立公園管理員の沢田栄介さんが出迎えてくれた。
その夜の泊りは地獄谷を下りて、雷鳥沢の雷鳥荘であった。谷から引いて来たゆたかな硫黄泉に、先ず痛む足を浸した。
立山火山の最も新らしい活動を今に残している地獄谷は、径二キロ近い谷全体が咆哮し、轟音を立てて硫気を噴きあげている。何人もの登山者がその硫気を吸い、泥火山の熱い泥の中に落ちて死んだ。立山を舞台にした謡曲「|善知鳥《うとう》」の中では、紅蓮大紅蓮とか、焦熱大焦熱という強烈な漢字を綴って、地獄谷のすさまじい姿をあらわしている。『今昔物語』にも「善知鳥」の猟師と同じように、生前の罪の報いで、立山の地獄谷に落ちて苦しんでいる女の亡霊が出て来て、旅びとに救いを求める話がのっている。
夕暮れ近い谷間は、一面の雪が灰いろに沈んでいて、雷鳥の重苦しい啼き声と共に何か陰惨な感じがしたのは、伝説の持つ暗さのせいであろうか。
あくる朝早く、沢を登り切って、みくりが池のほとりで、雪の間から噴き上ったような、イワイチョウの、鮮烈な緑を見た。まだ蕾も出ていないけれど、その|縁《ふち》に細いギザキザを持った、たくましい葉に、ふと、逆境をはねかえす大伴家持の心意気を見たような気がした。
旧噴火口の一つであるみくりが池には、竜神の怒りにふれて、蛇体に変じて沈んだという坊さんの伝説があるけれど、青年家持が、もしこの山に登っていたら、やっぱりこの池で泳いだにちがいない。しかし、坊さんのように心臓麻痺で死ぬことはなかったろうと思ったりした。
なお、この立山の旅で、足弱の私の杖となって私を助けてくれた志鷹光次郎さんは、昭和四十三年(一九六八年)胃ガンで亡くなられた。まだ六十代の前半であった志鷹さんは元気で、私に、今度は劒岳に登るように、いや必ず登らせてあげますと言ってくれたのだったが。積雪期、厳寒期の劒岳初登頂のかがやかしい記録を持っておられたのに残念この上もないことである。