立山は交通機関の便利がよくなって、昔よりは容易に三千メートルの岩峰の頂きに立ち、はるかに槍ヶ岳や加賀の白山を、間近に黒部の谷々や後立山連峰を眺められるようになったけれど、山の恐しさは、大伴家持の頃と、ほとんど変っていないのではないだろうか。
立山から薬師岳まで、浄土、鬼、竜王、獅子などの峰々を過ぎるとき、まだ雪のべったりと貼りついた急傾斜の岩場の道では、何度も転落の危険に胸を凍らせ、天正八年十二月、越中の領主、|佐々成政《さつさなりまさ》が、加賀の前田利家とたたかって、遠江の徳川家康に援けを求めるために越えていったザラ峠では、雹を伴う冷雨に全身をたたかれた。
その夜の五色ヶ原の小屋では、ガイドの志鷹光次郎さんが、日本山岳史の上で名高い松尾峠の遭難の話をしてくれた。
大正十二年、槇有恒、三田幸夫、板倉勝宣の三氏が厳冬の立山登山を決行し、十人のガイドをたのんだが、志鷹さんは当時のガイドの生残りの二人のうちの一人であった。
電車もケーブルもバスもなかった頃の、雪の立山はどんなに多くの体力を要したことか。頂上を極めて、室堂から弥陀ヶ原まで来た時、猛吹雪で方向を見失い、ようやく松尾峠から立山温泉に下る道に取りついて、板倉さんは疲労凍死した。
この三人は日本の近代的登山の草分けともよばれる熟達者揃いで、槇さんはすでにスイスで六回も冬期登山を果し、板倉さんは冬の大雪山、燕、槍などに登り、三田さんも三月の立山、劒の経験がある。しかし救援を求めて松尾峠の急坂をスキーで下りる三田さんは、幾度か下山を妨げる幻影に苦しみ、行手をはばむ幻覚に惑わされた。槇さんは、その腕に絶え入ってゆく僚友の冷たいからだを抱かなければならなかった。
先に下山した志鷹さんたちは、三人が三日もつづいた猛吹雪を、室堂の小屋で避けているとばかり思っていたという。出発の朝、板倉さんのアルミの弁当箱の蓋が、焚火の中に落ちると、あっという間に炎の中でめくり返り、小さくちぢまって熔けてしまった。滅多にないことなので、いやな予感がしたと光次郎さんは、燃えさかる焚火の炎を前にして、暗く低い声で語った。
佐伯氏と並んで、志鷹氏は立山山麓に古代から住んでいた豪族の家系を持ち、光次郎さんの家は一族の元祖であるという。
十八歳からのガイド生活に、立山連峰のどの谷もどの沢も、自分の家の庭のようによく知っているという光次郎さんは、そのとき六十二歳であった。殊に高山植物に明るくて、ザラ峠の急坂、更に越中沢、スゴ乗越と、重く痛い足を引きずってゆく私は、志鷹さんが、まだ雪に埋もれている花の名を次々に挙げてくれるおかげで、大分苦しさをまぎらすことができた。
五色ヶ原の小屋で雨のために足止めを食ってしょんぼりしていると、晴れれば明日は、薬師岳の東斜面にキバナノシャクナゲが大群落をつくっているのを見ることができる。二、三時間も照れば雪が減って、花も咲き出しているでしょうとはげます。
薬師岳は、美女平から弥陀ヶ原までの坂道の途中、右手に当って、|栂《とが》、ブナ、|朴《ほお》などの原生林の梢越しに、根張りゆたかな山容をどっしりと据えていた。
立山開山伝説では、国司の息子の佐伯有頼が、逃げた白鷹を追って急坂を登りつづけ、疲れて倒れ伏した野で、薬師如来から薬草を教えてもらうことになっている。
富山の薬売りは薬の効能を語りながら、併せて立山権現の功徳をひろめていったのだと思うけれど、説話の舞台に、熔岩台地と旧火口壁の急斜面とが相次ぐ立山周辺の地形がよく取り入れられ、富山平野からいきなり三千メートルに近くそびえたつ立山連峰への畏怖と渇仰の心がこめられていておもしろい。
しかし実際には立山から薬師岳まで、幾つもの鋭い勾配があり、雪渓の横断もしばしばで、私の病んだ足は、薬師の登りにかかって、一歩も半歩も前に進まなくなってしまった。薬師如来ならぬ志鷹さんは、数歩先を歩きながら、あまりみんなにおくれると、クマが出ますとか、これは今、通ったばかりのカモシカの足あとですとか、花の名ではもう動かない私の足を、ケモノの名ではげましつづけた。趣味は狩猟だという。先祖以来の狩猟民族の血がよぶのか、ケモノの話をするときの志鷹さんは生き生きとして声もはずんでいる。
その日、北薬師の山腹はまことにキバナノシャクナゲの群落にいろどられていて足も心も軽くなり、それから二時間かかって辿り着いた薬師岳の頂上には、小さな祠のあとと、さびた刀剣がいっぱいあって、苦しみ苦しみここまで来たのは、自分だけではないのだと、眼に見えぬ先人の霊になぐさめられる思いであった。
それにしても昔の立山、昔の薬師は、麓から全部歩いたのだから大変なことだったと思う。ときには、とったケモノの肉を焼いて食べたり、岩魚を釣って食べたりもしたのであろう。志鷹さんは薬師の頂上の雪をコンデンスミルクに入れ、私に食べさせてくれた。おいしかった。
立山から薬師岳まで、浄土、鬼、竜王、獅子などの峰々を過ぎるとき、まだ雪のべったりと貼りついた急傾斜の岩場の道では、何度も転落の危険に胸を凍らせ、天正八年十二月、越中の領主、|佐々成政《さつさなりまさ》が、加賀の前田利家とたたかって、遠江の徳川家康に援けを求めるために越えていったザラ峠では、雹を伴う冷雨に全身をたたかれた。
その夜の五色ヶ原の小屋では、ガイドの志鷹光次郎さんが、日本山岳史の上で名高い松尾峠の遭難の話をしてくれた。
大正十二年、槇有恒、三田幸夫、板倉勝宣の三氏が厳冬の立山登山を決行し、十人のガイドをたのんだが、志鷹さんは当時のガイドの生残りの二人のうちの一人であった。
電車もケーブルもバスもなかった頃の、雪の立山はどんなに多くの体力を要したことか。頂上を極めて、室堂から弥陀ヶ原まで来た時、猛吹雪で方向を見失い、ようやく松尾峠から立山温泉に下る道に取りついて、板倉さんは疲労凍死した。
この三人は日本の近代的登山の草分けともよばれる熟達者揃いで、槇さんはすでにスイスで六回も冬期登山を果し、板倉さんは冬の大雪山、燕、槍などに登り、三田さんも三月の立山、劒の経験がある。しかし救援を求めて松尾峠の急坂をスキーで下りる三田さんは、幾度か下山を妨げる幻影に苦しみ、行手をはばむ幻覚に惑わされた。槇さんは、その腕に絶え入ってゆく僚友の冷たいからだを抱かなければならなかった。
先に下山した志鷹さんたちは、三人が三日もつづいた猛吹雪を、室堂の小屋で避けているとばかり思っていたという。出発の朝、板倉さんのアルミの弁当箱の蓋が、焚火の中に落ちると、あっという間に炎の中でめくり返り、小さくちぢまって熔けてしまった。滅多にないことなので、いやな予感がしたと光次郎さんは、燃えさかる焚火の炎を前にして、暗く低い声で語った。
佐伯氏と並んで、志鷹氏は立山山麓に古代から住んでいた豪族の家系を持ち、光次郎さんの家は一族の元祖であるという。
十八歳からのガイド生活に、立山連峰のどの谷もどの沢も、自分の家の庭のようによく知っているという光次郎さんは、そのとき六十二歳であった。殊に高山植物に明るくて、ザラ峠の急坂、更に越中沢、スゴ乗越と、重く痛い足を引きずってゆく私は、志鷹さんが、まだ雪に埋もれている花の名を次々に挙げてくれるおかげで、大分苦しさをまぎらすことができた。
五色ヶ原の小屋で雨のために足止めを食ってしょんぼりしていると、晴れれば明日は、薬師岳の東斜面にキバナノシャクナゲが大群落をつくっているのを見ることができる。二、三時間も照れば雪が減って、花も咲き出しているでしょうとはげます。
薬師岳は、美女平から弥陀ヶ原までの坂道の途中、右手に当って、|栂《とが》、ブナ、|朴《ほお》などの原生林の梢越しに、根張りゆたかな山容をどっしりと据えていた。
立山開山伝説では、国司の息子の佐伯有頼が、逃げた白鷹を追って急坂を登りつづけ、疲れて倒れ伏した野で、薬師如来から薬草を教えてもらうことになっている。
富山の薬売りは薬の効能を語りながら、併せて立山権現の功徳をひろめていったのだと思うけれど、説話の舞台に、熔岩台地と旧火口壁の急斜面とが相次ぐ立山周辺の地形がよく取り入れられ、富山平野からいきなり三千メートルに近くそびえたつ立山連峰への畏怖と渇仰の心がこめられていておもしろい。
しかし実際には立山から薬師岳まで、幾つもの鋭い勾配があり、雪渓の横断もしばしばで、私の病んだ足は、薬師の登りにかかって、一歩も半歩も前に進まなくなってしまった。薬師如来ならぬ志鷹さんは、数歩先を歩きながら、あまりみんなにおくれると、クマが出ますとか、これは今、通ったばかりのカモシカの足あとですとか、花の名ではもう動かない私の足を、ケモノの名ではげましつづけた。趣味は狩猟だという。先祖以来の狩猟民族の血がよぶのか、ケモノの話をするときの志鷹さんは生き生きとして声もはずんでいる。
その日、北薬師の山腹はまことにキバナノシャクナゲの群落にいろどられていて足も心も軽くなり、それから二時間かかって辿り着いた薬師岳の頂上には、小さな祠のあとと、さびた刀剣がいっぱいあって、苦しみ苦しみここまで来たのは、自分だけではないのだと、眼に見えぬ先人の霊になぐさめられる思いであった。
それにしても昔の立山、昔の薬師は、麓から全部歩いたのだから大変なことだったと思う。ときには、とったケモノの肉を焼いて食べたり、岩魚を釣って食べたりもしたのであろう。志鷹さんは薬師の頂上の雪をコンデンスミルクに入れ、私に食べさせてくれた。おいしかった。