もしも一番好きな山はと聞かれたら、黒部五郎と答えたい。
この山は立山の頂きから、はるかに遠く、薬師の頂きからは間近に眺められ、一方に鋭く切り立ったような稜線と、一方にゆるやかな裾をひいた形が、不等辺三角形のように何か安定していて、あたりの山々の中にきわだっていた。古い火山活動による山の東面は、薬師と同じように、深くえぐられた氷河の谷のあとを残している。
薬師から太郎兵衛平まで来て、その小屋に一泊した夜、足弱の私は、上高地までの予定を変更して、有峰に下ったらと同行者たちにすすめられ、たとえ途中で野営することになっても、あの黒部五郎の頂きだけは踏んで見たいと切望した。
あくる朝は五時に出発、太郎山、上ノ岳、赤木岳を過ぎ、熊やカモシカの足跡を幾つか見ながら十時、急峻な岩尾根を登りつめてその頂上に着いた。這松に被われた狭い平地に遭難碑が一つ立っていた。
スゴ乗越の近くにも遭難碑があり、ピッケルに落雷して死んだ大学生とのことであった。薬師の下りで、私たちの一行もものすごい雷にあったのだが、とっさに皆ピッケルを遠くに投げ出し、眼鏡をとるひともいた。
遭難碑を見る度に、そこに空しく果てた生命を思い、残された者の悲しみが胸にうずく。よく山で死ねれば本望とか、あのひとは好きな山で死んだのだから仕合わせとか、言ったりするけれど、私は死ぬために山にくるものはいないと思う。山で死ぬのは本人にとって痛恨極まりないはずである。
しかし山の一歩一歩は、里での交通事故よりもはるかに確実に危険をはらんでいる。それでも私たちは山にくる。あるいは死とすれすれの危険な場所と知ってなお、一そう心惹かれながら。
黒部五郎の東面の深い谷は、六月の半ば近いというのに一木一草の姿もなくて、一面の雪に埋まっていた。この雪の下にももしかして、ひとに知られずに息絶えた遺骸があるのではないか。こんなにもこの山に惹かれたのは、見えぬ霊がよんだのであろうか。いつか霧が湧きはじめて、空は青々と晴れているのに、谷の底からほの暗い影が湧きひろがるようであった。
黒部にはその後十年して、からだの頑丈な次男と八月の盛夏に又訪れた。
雑誌『銀花』の編集者の前野薫嬢。そして三木慶介さんが写真を撮るために同行した。この十年の間に、私は足の大腿骨骨折手術を二度したけれど、山は前回の時よりは、いささかの経験を積んでいた。手術した足はよくついたが、ギプスを長くはめたことで、片一方の筋肉が弱くなってしまった。しかしそれも度々山へ来ることで復調した。
二度目の黒部は、有峰から入って第一夜を太郎兵衛平の小屋で迎え、御主人の五十島氏から、数年前の冬の、愛知大生十三人の薬師岳での遭難の悲劇を新聞よりもくわしく聞いた。大事な息子を死なせた親たちが、毎年の盆の日には、花や線香を持って有峰のあの急坂を登ってくること。五十歳、六十歳を越えてはじめて山にくるひとも多く、遺骨を見つけるために山に来ていた父親が、黒部よりの谷の岩かげに、息子の|亡骸《なきがら》を発見、お前はここでお父さんを待っていたのかと、骨を集めて抱きしめて泣いたこと。どれもこれも胸が痛くなるような辛い話ばかりである。山へ来るということは、全く死とすれすれの場に身を置くことなのだった。
娘時代から結婚してもなお、山登りが好きだという私に、よく母は言った。たのむからあぶないところへゆかないで。あなたが山にいっていると、帰るまで心配で、自分の身が細るようだ、と。
そして私は、家の門を出る時まで、母の声を背中に知っていて、駅までくるともう、心は山へ山へと一散走りに走っていった。どんな山の道でも、母が心配しているから早く帰ろうと思ったことはなかった。少しの時間も長く山にいたいと思った。駅に下りてもまだ心を山に残し、家の門の前に来て、母の顔と声を思い浮べた。
山の何がそんなに私を惹きつけたのだったろうか。
母には、顔を見ればいつも悪い悪いと思っていた。母は八十幾つかで心臓麻痺が直接の原因で死んだのだが、母の心臓を弱めた力の何パーセントかは、私のくりかえしの山ゆきにあったのではないかと、今も思い返す度に胸が痛む。
それにしても十三人もの若もののいのちが一挙に失われたとは、何という不幸か。
いつか自分も、越えていった頂きの稜線を仰ぎながら合掌した。
二度目の太郎兵衛の小屋では、志鷹光次郎さんの息子の忠一さんにあった。光次郎さんが胃ガンでなくなったのはその前年である。私を劒岳に登らしてあげたいと、わざわざたよりをよこしてくれたことがある。忠一さんも親ゆずりの名ガイドなので、この次は是非案内して下さいとたのんだ。
この前の時とちがって、真夏の黒部五郎の谷はミヤマヨツバシオガマの赤や、コバイケイソウの白、シナノキンバイの黄で埋まり、チングルマの花は早や早やと散って、花柱が伸びて羽毛のように空にむかってそよいでいた。そのさかんな姿を見ながら、この氷河のあとを残す谷には、たった一人、はるばると辿り着いて、力尽きて倒れて死んだひとが、千年二千年の昔からたくさんいたのではないか。氷河期のそれ以前からもと思い、その埋もれた遺骸を吸って、こんなにも花々が、いろ鮮やかに美しいのではないかと思われてならなかった。
この山は立山の頂きから、はるかに遠く、薬師の頂きからは間近に眺められ、一方に鋭く切り立ったような稜線と、一方にゆるやかな裾をひいた形が、不等辺三角形のように何か安定していて、あたりの山々の中にきわだっていた。古い火山活動による山の東面は、薬師と同じように、深くえぐられた氷河の谷のあとを残している。
薬師から太郎兵衛平まで来て、その小屋に一泊した夜、足弱の私は、上高地までの予定を変更して、有峰に下ったらと同行者たちにすすめられ、たとえ途中で野営することになっても、あの黒部五郎の頂きだけは踏んで見たいと切望した。
あくる朝は五時に出発、太郎山、上ノ岳、赤木岳を過ぎ、熊やカモシカの足跡を幾つか見ながら十時、急峻な岩尾根を登りつめてその頂上に着いた。這松に被われた狭い平地に遭難碑が一つ立っていた。
スゴ乗越の近くにも遭難碑があり、ピッケルに落雷して死んだ大学生とのことであった。薬師の下りで、私たちの一行もものすごい雷にあったのだが、とっさに皆ピッケルを遠くに投げ出し、眼鏡をとるひともいた。
遭難碑を見る度に、そこに空しく果てた生命を思い、残された者の悲しみが胸にうずく。よく山で死ねれば本望とか、あのひとは好きな山で死んだのだから仕合わせとか、言ったりするけれど、私は死ぬために山にくるものはいないと思う。山で死ぬのは本人にとって痛恨極まりないはずである。
しかし山の一歩一歩は、里での交通事故よりもはるかに確実に危険をはらんでいる。それでも私たちは山にくる。あるいは死とすれすれの危険な場所と知ってなお、一そう心惹かれながら。
黒部五郎の東面の深い谷は、六月の半ば近いというのに一木一草の姿もなくて、一面の雪に埋まっていた。この雪の下にももしかして、ひとに知られずに息絶えた遺骸があるのではないか。こんなにもこの山に惹かれたのは、見えぬ霊がよんだのであろうか。いつか霧が湧きはじめて、空は青々と晴れているのに、谷の底からほの暗い影が湧きひろがるようであった。
黒部にはその後十年して、からだの頑丈な次男と八月の盛夏に又訪れた。
雑誌『銀花』の編集者の前野薫嬢。そして三木慶介さんが写真を撮るために同行した。この十年の間に、私は足の大腿骨骨折手術を二度したけれど、山は前回の時よりは、いささかの経験を積んでいた。手術した足はよくついたが、ギプスを長くはめたことで、片一方の筋肉が弱くなってしまった。しかしそれも度々山へ来ることで復調した。
二度目の黒部は、有峰から入って第一夜を太郎兵衛平の小屋で迎え、御主人の五十島氏から、数年前の冬の、愛知大生十三人の薬師岳での遭難の悲劇を新聞よりもくわしく聞いた。大事な息子を死なせた親たちが、毎年の盆の日には、花や線香を持って有峰のあの急坂を登ってくること。五十歳、六十歳を越えてはじめて山にくるひとも多く、遺骨を見つけるために山に来ていた父親が、黒部よりの谷の岩かげに、息子の|亡骸《なきがら》を発見、お前はここでお父さんを待っていたのかと、骨を集めて抱きしめて泣いたこと。どれもこれも胸が痛くなるような辛い話ばかりである。山へ来るということは、全く死とすれすれの場に身を置くことなのだった。
娘時代から結婚してもなお、山登りが好きだという私に、よく母は言った。たのむからあぶないところへゆかないで。あなたが山にいっていると、帰るまで心配で、自分の身が細るようだ、と。
そして私は、家の門を出る時まで、母の声を背中に知っていて、駅までくるともう、心は山へ山へと一散走りに走っていった。どんな山の道でも、母が心配しているから早く帰ろうと思ったことはなかった。少しの時間も長く山にいたいと思った。駅に下りてもまだ心を山に残し、家の門の前に来て、母の顔と声を思い浮べた。
山の何がそんなに私を惹きつけたのだったろうか。
母には、顔を見ればいつも悪い悪いと思っていた。母は八十幾つかで心臓麻痺が直接の原因で死んだのだが、母の心臓を弱めた力の何パーセントかは、私のくりかえしの山ゆきにあったのではないかと、今も思い返す度に胸が痛む。
それにしても十三人もの若もののいのちが一挙に失われたとは、何という不幸か。
いつか自分も、越えていった頂きの稜線を仰ぎながら合掌した。
二度目の太郎兵衛の小屋では、志鷹光次郎さんの息子の忠一さんにあった。光次郎さんが胃ガンでなくなったのはその前年である。私を劒岳に登らしてあげたいと、わざわざたよりをよこしてくれたことがある。忠一さんも親ゆずりの名ガイドなので、この次は是非案内して下さいとたのんだ。
この前の時とちがって、真夏の黒部五郎の谷はミヤマヨツバシオガマの赤や、コバイケイソウの白、シナノキンバイの黄で埋まり、チングルマの花は早や早やと散って、花柱が伸びて羽毛のように空にむかってそよいでいた。そのさかんな姿を見ながら、この氷河のあとを残す谷には、たった一人、はるばると辿り着いて、力尽きて倒れて死んだひとが、千年二千年の昔からたくさんいたのではないか。氷河期のそれ以前からもと思い、その埋もれた遺骸を吸って、こんなにも花々が、いろ鮮やかに美しいのではないかと思われてならなかった。